2012年03月05日

風土と文明と民族の心〜和辻哲郎(2)

風土と文明と民族の心〜和辻哲郎 (2)



 和辻哲郎の名著に『風土』があります。この本は、単に地理学や比較文化論の本ではなく、和辻の倫理学の一環をなすものです。それとともに、この本は、倫理学に基づいて風土と文明の関係を考察した本でもあります。

若き和辻はハイデッガーの著書『存在と時間』に衝撃を受けました。20世紀を代表する哲学者ハイデッガーは「存在とは何か」という問いのもとに、現存在つまり人間の存在を分析しました。その哲学は存在論とか実存哲学として有名です。

人は漠然とではありますが、存在について理解を持っています。そして、自分に過去と未来があり、いつか死ぬことを知っています。ハイデッガーは、そうした現存在を時間との関わりにおいて論じ、さらに存在そのものの意味を時間に見出そうとしました。これに対し、和辻は異論を唱えます。人間存在は時間性だけではとらえられないからです。人が単に個人として生き、また死ぬのではありません。人は個人的とともに社会的な存在であり、他者とかかわり合う空間の中で、生の時間を生きています。それゆえ、人間の存在は、時間性とともに空間性からもとらえねばなりません。時間性とは歴史的、空間性とは風土的ということです。そこで、和辻は人間存在の考察のために、風土の研究を行いました。その成果が、昭和10年(1935)に刊行された『風土―人間学的考察』です。

和辻がいう風土とは、客観的な自然環境のことではありません。風土は主体的な人間存在の表現であり、人間の自己了解の仕方です。例えば、寒気は、我々の外にあって、我々に迫ってくるのではなく、我々が寒さを感ずるのであり、そこに寒気を見出すのです。また、我々は、他者とともに同じ寒さを感じ、日常の挨拶に用います。寒さの感じ方自体が、間柄的で共同存在的です。「だから」と和辻は述べます。「寒さにおいて己れを見出すのは、根源的には間柄としての我々なのである」「すなわち我々は『風土』において我々自身を、間柄としての我々自身を、見出すのである」と。

さて、「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される」と和辻は述べます。そして、海外を旅した自身の体験に基づいて、風土をモンスーン、沙漠、牧場の3類型に分けます。さらに、東アジア、南アジア、西アジア、ヨーロッパの風土的特性と民族・文化・社会の伝統的特質の関係について考察します。

和辻は、日本の風土をモンスーンの特殊形態であるとします。モンスーン型は、インドから東アジア一帯に見られるもので、暑さを素直に受け入れる受容的な性格と、大雨による災害にもじっと耐える忍従的な性格を特徴とします。その中で、日本の風土は、規則的でありつつ、同時に変化にもまれています。日本はユーラシア大陸と太平洋の間にあり、極めて変化に富む季節風が吹き、夏は突発的で猛烈な台風が来て大雨をもたらし、冬は大雪をもたらします。言い換えると、日本の風土は、熱帯的とともに寒帯的であり、また季節的でありつつ突発的であるという二重の性格をもっています。こうした気候の影響により日本人の国民性には、モンスーンの受容性・忍従性に、熱帯のあきらめ、寒帯の辛抱強さなどが加わっていると和辻は考えます。そして、次のように述べます。

「日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が、変化においてひそかに持久しつつ、その持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が、反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の裏に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられる。それは、“しめやかな激情”“戦闘的な恬淡”である。これが日本の国民的性格にほかならない」と。

 同じようににして、和辻は様々な民族について、風土的特性との関係を考察します。これは、風土と文明の関係を論じ、文明の中核である精神と風土の関係を明らかにしようとしたものともいえます。

さて、和辻によれば、人間存在は時間的と同時に空間的存在であり、歴史的・風土的な特殊構造を持っています。それゆえ、地球上の地理的条件による風土の多様性が、諸文明の多様性の基礎となっています。これを抽象的な普遍思想によって一元化しようとするのは、無理があります。政治的には「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」をめざすとともに、文化的には多様なものの共存調和を図るべき所以の一つが、風土と文明の関係に求められるのです。

和辻の名著『風土』は、人間学的生態学的な風土論の先駆として不朽の価値をもっています。また、日本学・日本人論に大きな影響を与えています。それと同時に、倫理学に基づいて、風土と文明の関係を考察した本ともいえるのです。



参考資料

・和辻哲郎著『風土――人間学的考察』(岩波文庫)

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日本的倫理は世界的人倫実現の鍵〜和辻哲郎(1)

日本的倫理は世界的人倫実現の鍵〜和辻哲郎(1)



●人は独りでなく間柄的存在

現代文明は行き詰まっており、人類は生存の危機にあります。そうした中で、私たちの生き方が根本から問われています。

 今日、大抵の人は、自分というものがなによりも大切だと感じ、個人の自由や権利を守り、自分らしく生きることが目標だと考えます。実はこうした個人を中心に考える考え方は、人間の歴史から見ると、とても新しい考え方です。わずか300〜400年程前、西欧に始まった考えです。近代西欧から広がったこの思想は、個人や自我が独立して存在するものと考えます。これに対し、根本的な反論を述べたのが、和辻哲郎です。

 和辻は、漢語の「人間」という言葉は本来、人と人の間すなわち「よのなか」「世間」を意味し、「俗に誤って人の意となった」と指摘します。これを踏まえて、和辻は、「人間」とは「世の中自身であるとともにまた世の中における人である」と述べます。言い換えると、人間には「個人性と社会性の二重性格がある」というわけです。性格といっても文字通りの意味ではなく、個人性と社会性の両面があると理解すればよいでしょう。

 和辻は『人間の学としての倫理学』(昭和9年刊)で、自論を展開します。彼によると、「倫理」の「倫」という言葉は、元来「なかま」を意味し、人と人の「間柄(あいだがら)」や「行為的連関」(係わり合い)の仕方や秩序をも意味します。一方、「倫理」の「理」は、ことわり、すじ道を意味します。それゆえ「倫理」とは「人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる」ものです。そして、和辻は、倫理学とは「人間関係、従って人間の共同態の根底たる秩序・道理を明らかにしようとする学問」であると定義します。彼によって、個人ではなく間柄を基本においた、新しい倫理学が誕生しました。

 西欧近代に生まれた個人主義的な人間観は仮構にすぎないと、和辻は説きます。個人主義的な人間観の元祖といえるのは、デカルトです。彼は、すべてのものを疑ったすえに、それを疑っている自己の存在だけは自明であるとし、そこから「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という認識に到達しました。しかし、和辻はデカルトを次のように批判します。

 「この問いの立場は、実践的行為的連関としての世間から離脱し、すべてをただ観照する、という態度を取ることにほかならぬ。従ってそれは直接的に与えられた立場ではなくして人工的抽象的に作り出される立場である。言い換えれば人間関係から己れを切り放すことによって自我を独立させる立場である」。

 すなわち、現実の社会における人間関係から自分を切り離し、ただ世界をながめているだけの自分という、作りものの立場だというのです。

 「疑う我が確実となる前に、他人との間の愛や憎が現実的であり確実であればこそ、世間の煩いがあるのである。言い換えれば観照の立場に先立ってすでに実践的連関の立場がある。デカルトは後者の中から前者を引き出しながら、その根を断ち切ってしまった」。

 和辻はこのように、デカルトの仮構をあばきます。ある面では、常識的な発想による批判です。しかし、西欧近代では、こうした常識的な考え方が、どこかへ行ってしまい、極めて抽象的な人間観に陥ったのです。デカルトの影響を受けたホッブスやロックは、原子(アトム)のようにそれ自体で存在する個人を想定し、そこから出発して社会の成り立ちや国家の由来を考えました。社会契約説がそれです。現代の日本国憲法や人権思想も、基本的にはこうした考えに基づいています。その根本には、デカルトのコギトがあります。彼の影響は20世紀にまでも続き、フッサールやハイデッガーにも、デカルト以来の個人主義の色彩が残っていることを、和辻は見破り、その仮構を暴露しました。

 本来、人間は、決して単なる個人ではありません。人は誰でも自分ひとりで生きているのではありません。親や先祖があるから自分が生まれてきたのです。妻や夫、兄弟や友人、子どもや孫、社会や国家があって、自分はその関係の中にいるのです。この至極当たり前のことを、西欧近代の思想は軽視しています。そこから抽象的で個人主義的な考え方が出ています。しかし、人は、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な間柄の中で生きているのです。これは古今東西変わらない事実です。和辻の言い方によれば、人間とは様々な間柄においてある「間柄的存在」です。こうした生きた関係性において人間を考察することによってこそ、人間の倫理を解き明かすことができると、和辻は主張したのです。

 和辻は、間柄の考察を、「家族」や「親族」、「地縁共同体」や「経済的組織」、「文化共同体」や「国家」へと広げていきます。また、間柄がおいてある空間としての「風土」の研究も行いました。その到達点が、主著『倫理学』全3巻(昭和12年〜24年刊行)です。これは、西欧近代思想に対抗して打ち立てられた東洋的・日本的な倫理学です。また同時に、近代思想を超える新時代の倫理学の試みでもあります。

 個人主義的な考えが多くの弊害をもたらしている今日、和辻の「間柄的存在」という考えは、私たちに大きなヒントを与えてくれています。

●「公と私」の体系

人間は、個人個人が独立して存在しているのではありません。人間とは、様々な間柄のなかで生活している間柄的存在です。言い換えると、人間は共同体という「人倫的組織」の中で生きているのだ、と和辻哲郎は言います。

和辻は、人倫的組織を、「家族」「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」「国家」の6つに分けて考察します。そして、「公と私」という問題を解き明かしていきます。人倫組織は、これらの諸段階を経て、私的なものから、公的なものへと高められるというのが、和辻の主張です。(1)

 

私たちにとって最も身近な私的存在は、男女二人の関係です。男女は心身の全体をもって互いにかかわり合い、二人の間では「私」が消滅します。このプライベートな関係が世間に公認されるのが、婚姻です。これによって、男女関係は夫婦関係となります。婚姻は、男女関係という私的なものを、公的なものに変えるのです。次に夫婦という二人の共同体に子供が誕生すると、親子の関係となり、三人の共同体となります。さらに子供が生まれると、兄弟姉妹の間には同胞共同体が生まれます。

夫婦・親子・兄弟等による「家族」は、さらに「親族」という、より公的な人倫組織の一部に含まれます。親族の間では、それぞれの家族の事情は「私」的なものとなるわけです。次に親族は「地縁共同体」へ、「地縁共同体」から「経済的組織」へ、「経済的組織」から「文化共同体」へと、より高次の段階に包摂されます。どの組織も、前の段階の組織が持つ「私」を超えることによって実現されます。そして、より「公」的で開放的な性格を持ちます。しかし、同時に、後の段階に対しては、より「私」的で閉鎖的な性格を持っています。このように「公と私」は、階層的で入れ子的な構造をもっていることを、和辻は明らかにしていきます。

そして、和辻は、「私」をことごとく超克して、徹頭徹尾「公」であり、「公」そのものである人倫的組織が「国家」である、と説きます。そして次のように述べます。「国家は家族より文化共同体に至るまでのそれぞれの共同体におのおのの所を与えつつ、さらにそれらの間の段階的秩序、すなわちそれら諸段階を通ずる人倫的組織の発展的連関を自覚し確保する。国家はかかる自覚的総合的な人倫的組織なのである」。国家は、さまざまの段階の人倫的組織をすべて「己れの内に保持し、そうしてその保持せるものにおのおのその所を与えることによって、それらの間の発展的連関を組織化しているのである。その点において国家は、人倫的組織の人倫的組織であるということができる」と。

以上のような和辻の社会観・国家観は、西洋近代思想とは大きく異なっています。デカルトが考えたような、間柄的存在に先立って存在するという個人を、和辻は否定します。そうしたアトム的(原子的)な個人が契約によって社会をつくったという、ホッブスやロックの社会契約論も否定します。また、国家を個人の利益の擁護を目的とする一つの特殊社会ないし打算社会とする契約的国家論をも斥けます。そのような西洋近代思想は、人間の本質を認識するものではないことを、和辻は明らかにしました。

さて、その一方、和辻が高く評価したものがあります。それは、教育勅語です。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という家族的道徳に始まり、「朋友相信シ」「進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」という社会的道徳に進み、「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という国民的道徳に至ります。和辻は教育勅語を、人倫的組織の各段階の道徳を示し、また諸人倫を包摂する国家の構成員の道徳を示すものとして、高く評価します。そして、教育勅語は、「私」的なものから、より「公」的なものに進み、「私」を超えて「公」に貢献する倫理を体系的に説いていることを、解き明かします。同時に、和辻は、教育勅語には、西洋近代思想を超える、人類普遍的な倫理があることを明示しているのです。(2)

●世界的人倫の実現を

和辻哲郎は、「国家」とは、「私」を超克した「公」そのものである人倫的組織と考えました。しかし、国際社会という、より大きな「公」の場においては、国家は新たな公共性を担う存在でもあります。この点に関する所論を見てみましょう。

 和辻は、国家の根本的なあり方とは、すべての国民が「所を得る」ようにすることであるとします。そして、「家族」にはじまり、「親族」「地縁共同体」「経済的組織」「文化共同体」までのあらゆる人倫的組織の人倫がを実現することです。そのために、国家がなすべきことは、国民に「正義の保証」をすることであり、「仁政」つまり仁愛に基づく政治をすることだとします。そして、全国民が「所を得る」ようにするという国内における道義の実現は、「万邦をしておのおのその所を得せしめる」という国際的な道義の実現につらなっていきます。

 

和辻は戦前、国家を人倫の至上と考えていましたが、戦後はそれまでの自説を是正しました。戦後世界を見た和辻は、いまや国際社会は「世界的国家」の方向に向かって動こうとしていると考えたからです。そして、過去の世界史の場面は、諸国家・諸民族の対立と争闘の場でしたが、いまや人類は、民族や国家の別なく一つの共同体を形成すべきであるという展望ないし理念を、歴史的に生み出すに至ったという認識を明らかにします。「世界史の意義は世界的な人倫的組織への方向にある」と和辻は述べました。

ここにおいて和辻は、それまでの国家的国民的な倫理学を、世界的人類的な倫理学へと発展させたのです。彼は次のように書いています。

「いかなる民族も、家族を形成し地縁共同体を形成し、そうして言語、宗教、芸術、思想等の共同を実現せざるを得ない。(略)これらの民族におのおのその所を得せしめ、その特殊な形態においてそれぞれその固有の国家を形成せしめることは、正義即仁愛を世界的に実現するゆえんである」と。

続いて和辻は、各国家・各国民はなにをなすべきか、を論じます。「一つの世界」という「課題の解決に参与し得るためには、いかなる国民もまず一つの国民としての人倫的組織の実現に努めなくてはならない」。次に、確固たる人倫体を形成した諸国民が組織を作り、「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」を形成する、という順序となる、と。

こうした和辻の考え方は、近年わが国で流行している、家族や民族や国家から自立した個人が地球市民として連合して地球社会をつくるという個人主義的な考え方とは、対照的な道を指し示しています。和辻は、人間の「個人性と社会性の二重性格」に基づいて、人間の本質をとらえ、家族や民族や国家を肯定するからです。そして、「一つの世界」をめざすためには、それぞれの国民が確固たる人倫組織を実現すべきであるとします。いわば、それぞれの国で、人々が人倫に基づいて家族・地域・組織を形成し、文化を育み、道義に基づいた立派な国づくりをする。そうした国家が寄り集まることによってこそ、「世界国家」が実現できると和辻は説くわけです。

「世界国家」は、世界的なひとつの共同体であり、西欧近代の「個」の原理に基づく近代主権国家という卵の殻を破ってこそ、可能となるものです。和辻は、政治的には各国民国家は主権を放棄すべきとします。しかし、文化的には「諸国民の文化をそれぞれの独自の性格において発展せしめつつ、しかもそれらの異なった文化を互いに補充し合い交響し合うように」すべきだと主張します。各国民は互いに侵すべからざる尊厳と価値をもち、「いかなる国民も、他の国民を支配してはならないとともに、他の国民に支配されてはならない」と、国際社会の倫理的原則を述べます。各国による主権の放棄が、超大国や一部の組織による支配体制を生み出すのではいけない、文化的には多様なものの共存調和が実現されるべきだという考え方でしょう。

それでは、わが日本国民は、どのようにしてこの課題に取り組むべきでしょうか。そのためには「教育勅語の本義に沿うことが肝心である」と和辻は説いています。「教育勅語の本義」とは、間柄的存在である人間が、家族的道徳、社会的道徳、国家的道徳の実践を通じて、万民が所を得る国家をつくり、さらにその道を押し広めて、万邦がその所を得る世界的な人倫組織を実現することにあるからです。一視同仁・四海同胞・共存共栄の理念ということもできます。

和辻は、20世紀後半以降の世界において世界国家実現をめざすために、教育勅語の再評価を促したのです。

 教育勅語は、過去において、日本精神を最もよく表現したものといえます。また、和辻の倫理学は、教育勅語を踏まえつつ、日本精神を学術的に解き明かし、発展させようとした最良の試みのひとつといえるでしょう。和辻倫理学を一言で言えば、日本精神の倫理学です。しかも、国際化時代における日本精神の倫理学として、再評価すべきものです。

今日、国際社会という「公」の場において、日本人がなすべきことを考える際、和辻哲郎の世界的人類的な倫理学には、大いに傾聴すべきものがあるといえるでしょう。


(1) 「公と私」の問題については、以下の項目をご参照ください。

公と私

(2)教育勅語については、以下の拙稿をご参照ください。

教育勅語を復権しよう

参考資料

・和辻哲郎著『人間の学としての倫理学』(岩波書店)、『倫理学』(岩波書店版『和辻哲郎全集』第10〜11巻)

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日本文明と西欧文明の共通点

日本文明と西欧文明の共通点



日本文明は、西欧文明とはまったく異なる文明です。しかし、近代にいたる日本文明と西欧文明の過程を比較すると、いくつか重要な共通点があることに気づきます。

(1)日本文明・西欧文明とも、古代シナ文明、古代ギリシャ=ローマ文明というそれぞれの地域の主要文明の刺激を受け、周辺文明として発生した。両文明とも温帯を中心に位置し、自然の恵みと厳しさを体験しながら成長して、主要文明の一つになった。

(2)日本文明も西欧文明も、文明を統合するための原理・制度・機構を「親文明」に学んだ。日本はシナ法による律令制、西欧はローマ法による国家・社会を目指した。しかし、「親文明」である古代主要文明は片や低迷片や消滅した。そのため、「子文明」は、独自の文化を発達させることができた。

(3)「子文明」には、「親文明」が残した文化的統合の象徴によって、緩やかな統一性が残った。日本文明では仏教・道教・儒教と漢字漢文、西欧文明ではキリスト教とラテン語がそれである。弱い統合であるにもかかわらず、両文明は分解することなく、約千年にわたり持続した。ただし、日本文明は、固有の神道・皇室・家族国家を統合力として持ち、西欧文明は、外来の宗教・言語以外に、固有の統合力を持たなかった。

(4)主要文明の影響により、日本ではそれまでの氏族制度、西欧では部族制度をやめて、血縁集団構造を解体しようとした。しかし、両文明は統合のための諸制度の継承や、軍事的・文化的な統合力の摂取は不十分だった。そのため、家産制による官僚統合国家をめざしたものの、中央集権化は成功せず、それぞれ封建制が出現した。

(5)封建制は家産制と違い、専制体制ではないので、財の分配が主として当事者間の社会的交換によって定まる。封建制の下、日本では武士道、西欧では騎士道が発達した。武士道は領主と武士が親子のような情で結び合い、騎士道は相互の意思の一致による契約関係であった。そこに違いがあるが、ともに個人を重視する気風が育った点では共通性がある。封建制は日欧でのみ発達した制度であり、近代化の土壌となった。

(6)日欧はともに13世紀にモンゴル族の大侵略を受けなかった。ユーラシア大陸の両端に位置するという地勢的条件が幸いした。それにより、それぞれ独自の文化を発達させることができた。まったく文化の異なる異民族による支配を千年以上も受けなかったことが、それぞれの個性を保持させた。

(7)日本文明・西欧文明は、主要文明から多くの文化要素を吸収したが、ともにそれを土着化して独自のものを生み出した。例えば、日本文明は仏教・儒教を日本化して日本的仏教、日本的儒教を生み出した。西欧文明はキリスト教を西欧化し、各国語訳聖書やプロテスタンティズムを生み出した。西欧におけるプラトン・アリストテレス・錬金術等の摂取は近代科学発生の土壌となり、日本における朱子学の学習は、西洋近代科学を理解する基礎となった。

(8)15世紀には、日本はシナ文明、西欧はイスラム文明という大文明の圧迫により、海に乗り出し、海洋アジアの物産に触れて、大きな刺激を受けた。ただし、その後は、「近代世界システム」と「江戸システム」という対照的な方向に進んだ。そして、それぞれの仕方で近代化の条件を整えていった。

(9)西欧では、呪術の追放による生活全般の合理化が進展した。すなわち近代化である。宗教・思想の合理化に始まり、近代科学が生まれ、民主主義・近代官僚制・資本主義等が発達した。日本は、西欧のような近代化は自生しなかったが、近代西洋文明を摂取し、近代化を推進できる条件を準備していた。武士が土地から離脱し、勤勉の思想が行き渡り、貨幣経済が発達していた等である。

10)日欧とも先行する文明による「試練」(challenge)に創造的に「対応」(response)し、独創性豊かな文明を生み出すことによって、世界文明史を活気あるものとしてきた。西欧は、長くイスラム文明の挑戦に応戦することで、独自の文明を確立した。12世紀ルネッサンス、14世紀イタリア・ルネッサンスがそうであり、17世紀科学革命もそうだった。これに対し、日本文明は、19世紀半ばに近代西洋文明の挑戦を受けることになった。人類史上最強の文明の挑戦だった。白人種の植民地化・奴隷化に陥るか、それとも有色人種が独立を保ち独自の文明で白人種に対抗してゆけるか。明治維新は、こうした世界文明史的な大事件だった


参考資料

西尾幹ニ著『国民の歴史』(扶桑社)

・ 同上『一つの文明圏としての日本列島』(『史』平成11年1月号所収)
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江戸日本文明のエコロジー

江戸日本文明のエコロジー



 17世紀末の約3年間1690-1692)に滞日したドイツ人ケンペルは、次のように記しています。

「この民は、習俗、道徳、技芸、立居振舞いの点で世界のどの国民にも立ちまさり、国内交易は繁盛し、肥沃な田畠に恵まれ、頑健強壮な肉体と豪胆な気象を持ち、生活必需品はありあまるほどに豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくて世界でも稀に見るほどの幸福な国民である」(「日本誌」)

また、幕末に来日したアメリカの総領事タウンゼント・ハリスも、安政4年(1858)に、次のように書いています。

「人々はみな清潔で、食料も十分にあり、幸福そうであった。これまでにみたどの国にもまさる簡素さと正直さの黄金時代をみる思いであった。」と。

ハリスの驚きの目は、江戸の町にも向けられました。そこは、19世紀の欧米のどの都市よりも人口の多い巨大都市でした。しかも、想像できないほど美しく衛生的な町でした。江戸日本文明には、欧米人が驚くほど、幸福な社会が実現されていたのです。

もともとほとんど人の住んでいなかった武蔵野の外れに、幕府が置かれ、人工的に作られた都市が、江戸です。急激に大勢の人が入り込んで来たので、ゴミや不用品の処理に困りました。1600年代の前半には、深刻な問題となりました。しかし、この解決に取り組んで、高度のリサイクル社会を実現したのです。

 人が多く住むと、排泄物の処理が問題となります。18世紀以後、江戸の人口は百万人から120万人もありました。糞尿の量は、年間にざっと60万から70万キロリットル。蒸発する分を差し引いても、50万キロリットルはあります。これは1日当たり1400キロリットルですから、10トン積みのトラック140台分になります。江戸の日本人は、これを捨てずに肥料にしたのです。

 江戸庶民の多くは長屋住まいで、トイレは共同でした。その糞尿の所有権は、大家にありました。大家は糞尿を農家に売りました。その収入は、家賃より多かったといいます。一般の町家や武家では糞尿を汲み取らせる代わりに、農家から野菜や漬物などをもらいました。大人一人の糞尿代は、1年に大根50本、ナス50個くらいが相場でした。

 こうして糞尿を大切な資源として利用したので、江戸の町では、下水に流す生活廃水が少なかったのです。隅田川は、河口の佃島(つくだじま)付近でも、白魚が豊富に取れるほど水がきれいでした。パリの空の下を流れるセーヌ川は、こうはいきませんでした。19世紀の文豪ビクトル・ユーゴーは、「レ・ミゼラブル(ああ無情)」の中で、パリの下水道を批判しています。当時のフランスの国家予算は20億フランでしたが、肥料の値段にして5億フラン分にもなる糞尿を、川に流していました。その結果、土はやせ、川が病気を運ぶため、「下水道は誤った考えである」とユーゴーは主張しています。西欧の市民に比べ、江戸の町民は、ずっと文化的な生活を送っていたのです。

 

物を大切にし、何でも最後まで使い切ることが、江戸時代の生活原則でした。いわば「もったいない」の徹底です。その例として、蝋燭(ろうそく)が挙げられます。「蝋燭の流れ買い」という業者がいて町を巡回し、各家で燭台の上に垂れたしずくが固まったものを、秤で計って買っていきました。買い集めた蝋は、安い蝋燭の原料として再利用されました。物を燃やして出る灰さえも、業者が回収して堆肥などに使用されました。

さらに、江戸時代には、様々なリサイクル業者がいました。その業者は3種類に分けられます。

(1)職商人(しょくあきんど): 修理が本業で、新品の販売や古物の下取りもした。提灯の張り替え、錠前直し、コタツのやぐら直し、めがね屋のレンズ取替など。

(2)修理・再生専門業者: 古い鍋・釜の鋳掛け、瀬戸物の焼き接ぎ、下駄の歯入れ、研ぎ屋など。

(3)回収専門業者: 紙くず買い、紙くず拾い、古着屋、傘の古骨買いなど。

これらの業者は、ボランティアではなく、リサイクル・システムの一端を担う職業人として、活躍していました。使えるものは、すべてリサイクルした上で、最終的に処理のしようのないゴミだけが、船で江戸湾の埋立地に運ばれました。江戸の下町の多くは、そうして造成された土地に暮らしていたのです。

このように江戸日本は、徹底的なリサイクル社会でした。

 さて、21世紀の人類を脅かす最大の危機――それは、核戦争と地球環境の破壊でしょう。核兵器も地球環境危機も、科学技術をもって異民族や自然を支配しようとした西洋近代文明が生み出したものです。世界規模で核戦争が起これば、人類はほとんど滅亡するでしょう。また、これ以上、資源・エネルギーの濫用を続けると、地球環境は回復不能なほど破壊されてしまうでしょう。

 人類は、このかけがえのない地球において、限られた資源を有効に使って共生する道を学ばなければなりません。この時、「近代世界システム」から離脱して、平和で自然と調和した社会を実現した江戸日本文明は、これからの地球文明のモデルを提示しているといえます。私たち日本人は、先祖の優れた知恵を、世界の人々に伝える使命を持っているのです。 



参考資料

・鬼頭宏著『環境先進国・江戸』(PHP新書)
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地球環境保全のヒントとなる江戸日本

地球環境保全のヒントとなる江戸日本



 日本文明は、江戸時代に熟成期を迎えました。江戸時代の日本人は、鎖国の中で停滞していたわけではありません。長期間にわたって平和を維持する統治システムをつくるとともに、閉ざれた国土で生産力を高めながら、環境と調和したリサイクル社会を建設したのです。

 江戸時代の初期は大開発時代でした。新田開発、用水整備などにより、わずか数十年の間に、コメの生産量が3倍に増えています。かつては海洋アジアから輸入していた木綿・砂糖・茶・生糸の国産化にも成功しました。生産力の増大は、人口を養う力を高めます。江戸幕府創設の直前である1600年に、日本の人口は1200万人だったのが、1721年には3100万人と2.6倍にも増えました。(1)

この間、耕地の増加は、225万ヘクタールから296万ヘクタールへと1.3倍です。人口の増加率の半分に過ぎません。これで2.6倍になった人口を養っていたのですから、土地生産性は2倍になったといえます。

 土地生産性が倍増したのは、人々がよく働き、また知恵を絞った結果です。飼料のために広い土地を必要とする牛馬を減らし、人力で代替しました。また、土地や作業に合った鍬(くわ)などの農具が開発されました。さまざまな創意工夫が農書にまとめられ、各地に広められました。江戸社会は、資本を節減し、労働を集約することによって、国内の限られた土地を最高度に活用したのです。ヨーロッパの「産業革命(Industrial revolution)」に対して、日本は「勤勉革命(Industrious revolution)」(速水融氏)を成し遂げたといわれる所以です。

ところで一般に生産性の向上は、土地の疲弊や自然環境の破壊をもたらします。この点においても、江戸日本人は、工夫と努力を惜しみませんでした。彼らは生活物資の多くを、徹底的に使い尽くし、最終的には燃やすか、肥料に使いました。それが土地生産性の向上となるとともに、自然の保護ともなっていたのです。

例えば、菜種から油を絞って残る油カスは、窒素分を含んでおり、良質の窒素肥料になります。作物に養分を吸収された後は、腐敗して土の一部になるので、完全にリサイクルする有機肥料といえます。また、稲を刈った後の藁(わら)も日用品を作ったり、堆肥(たいひ)にしたり、残りは燃料などに使いました。百パーセント利用して、大地に戻し、完全にリサイクルしていたのです。「街道ではしばしば旅行者が落としたり捨てたりした藁靴の山を見かけるが、集めて肥料にするのである」とドイツ人医師シーボルトは、書きとどめています。

新田の開発は、木の伐採を伴います。乱伐は、災害の原因となります。そこで、幕府は「諸国山川掟」(寛文6年1666)を公布して、大雨による土砂崩れや河川の氾濫が起こらないように、植林の奨励・焼畑の禁止などを申し渡しました。稲作には水が大切です。水が足りないと凶作となり、多すぎれば水害になります。それを調節してくれるのが山々の森林なのです。農民は木を切りっぱなしにせず、植林をして森を育て、森を守りました。森林は降雨による水を貯え、田に水を恵みます。いわば天然のダムの役割をします。また、森林は川の水を通じて田の土壌に有機源を補い、また水や風の被害を防ぐなどの役割もしています。稲作農民にとって、植林による森林の維持は、田を守り、生活を守っていくために不可欠のことだったのです。(1)

環境科学者の富山和子氏は、次のように書いています。江戸時代に日本中に繰り広げられた新田開発ブームで、「それまでどうにも手のつけられなかった荒れ地までも、農民、町人たちにより、ことごとく沃野に変えられてきたように、それまで藩の保護からも、林業からも見放されていた荒廃地、骨と皮ばかりのような山の斜面にまで、緑の樹々が植えられるようになったのは、まさにその新田の水のため、無名の農民たちによってのことであった」「江戸時代に始まった木を伐って植えるというこの産業は、自然に対する深い洞察力と、何十年何百年先を考えながら行動する作業の息の長さと、一本一本の木に対する細やかな心配りがあってはじめて可能である」と。

18世紀初頭、日本は、シナ、インドに続く世界有数の人口大国でした。富山氏は言います。「それほどの高い人口を擁しながらも、なお国土の7割を森林に保ち得たのは、ひとえに稲作なればこその土地の生産力のお陰であり、その豊かな水と土壌を約束してくれたのが国土の7割の森林であった。それほどの面積を森林として育て守ることで、土地の生産力が保証されたとも言える」と。(2)

さらに森林の維持は、漁業とも関係していました。山に水が蓄えられ、その水が田を通り、海に流れ込むと、水に溶け込んだ様々な栄養分が、魚たちを養います。農民は漁業の権利を併せ持っていましたから、森林の保全に努めることによって、海からの恵みも得られていたのです。このような、<山―川―田畑―村―海>を一つの生きたシステムとして保全する仕組みが出来ていたのです。

閉ざれた国土で生産力を高めながら、環境と調和したリサイクル社会を建設した江戸日本――ここには「持続可能な開発」をめざす21世紀地球文明への大きなヒントがあるのです。



(1) 米と環境の関係については、以下の拙稿をご参照下さい。

 「米は地球環境を守る

(2) 富山和子著『水と緑と土』(中公新書)

関連掲示

・拙稿「江戸日本文明のエコロジー

参考資料

・農文協編『江戸時代にみる日本型環境保全の源流』(農文協)
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江戸社会は世界平和実現のモデル

江戸社会は世界平和実現のモデル



 日本文明は、17世紀から西欧文明とは対照的な歩み方をします。

16世紀には世界最大の鉄砲の生産国・使用国であった日本は、江戸時代に入ると、軍縮の道を選びました。当時、世界最高の技術水準にあった鉄砲を捨ててしまったのです。この過程で決定的に大きかったのは、徳川家康のリーダーシップでした。

信長・秀吉に続き、戦国時代に終止符を打った家康は、天下太平の世を作ることを理想としていました。江戸に幕府を開くと、家康は鉄砲・火薬製造の統制を行います。鉄砲や火薬の産地を集中させ、鉄砲代官を置き、製造は幕府の許可制としたのです。寛永14年(1637)に島原の乱が起こりますが、これを治めることに成功すると、いよいよ幕藩体制は安定し、鉄砲はもはや戦闘の重要な要素ではなくなりました。鉄砲の製造数が減少する一方、世界最先端の技術も次第に衰退していきました。

 

こうして日本人は鉄砲を捨て、刀剣の世界に帰ったのです。元米国軍人のノエル・ペリンは、著書『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』で、日本人が鉄砲を捨てた理由を考察しています。第一は、日本は海に囲まれ、鉄砲以外の兵器で侵略から自国を守ることができたこと。第二は、キリスト教に対する反発と同時に、同じヨーロッパに起源を持つ鉄砲も軽視されていったこと。第三に、日本人は刀に武器として以上の価値を見いだし、刀は武士の魂であり、美術品でもあるという独特の意味を持っていたことです。ペリンは、これらを理由に挙げています。

 

銃の統制だけではありません。徳川幕府は、様々な戦争防止の仕組みを作り上げました。参勤交代や新たな築城の禁止、転封(国替え)など、精緻な統制が行われました。その結果、人類史上稀(まれ)なほど長い、平和の時代を実現しました。

ここで最も注目したい点は、長期平和を実現した思想です。日本には、西欧とは異なる世界観があったのです。キリスト教は「愛と平和の宗教」のようですが、その基底にはユダヤ教の怨恨的・闘争的な性格があります。それに基づく世界観は、近代において主権国家間の対立・抗争を原理とする国際秩序を生み出しました。これに比し、日本には、儒教に基づく修己治人の政治哲学がありました。

儒教の経典『大学』に「修身斉家治国平天下」という言葉がありますが、為政者は身を修めて徳を積むことに努力しました。そして、統治の正当性の源泉は、力ではなく徳であると考えられました。武力や策謀による支配は、覇道としてさげすまれ、仁徳による王道が理想とされました。

川勝平太氏は、これを「近世ヨーロッパでは覇権主義(パワー・ポリテックス)、近世日本では徳治主義(モラル・ポリテックス)が発達した」と表現しています。(註1)

ここで川勝氏は、16世紀から1800年ころまでの時代を「近世」と呼び、1800年頃以降を「近代」と言っています。

さて、徳治主義に基づくならば、軍縮はその必然的な帰結です。まさにこの思想によって、日本は、かつて世界最大の鉄砲の生産使用国であったにもかかわらず、徳川時代に入ると、鉄砲を捨て、徳によって天下を治めるという理想を追求したのです。

 先ほど引いたペリンは、17世紀の日本で、鉄砲が姿を消しつつあったまさにその時に、水道工事が開始されたことに注目しています。江戸ばかりでなく、日本中のいたるところに大規模な灌漑用水路が造られました。多くの個所では固い岩盤を貫通するトンネルを掘削する必要があったので、軍事技術が応用されました。軍縮が我が国の民生の向上を推し進めたわけです。また火薬の用途は弾薬から花火に転じ、夜空を彩る花火が夏の風物詩になりました。鉄砲数の削減に象徴される軍縮は、江戸時代の日本文明の熟成をもたらした要因の一つとなったと言えましょう。

島原の乱(1637-38)から大政奉還(1867)までの約230年間、我が国には戦争がなく、国内は安寧と平和に包まれていました。しかし、黒船による砲艦外交で、欧米が支配する「近代世界システム」に引きずり込まると、日本は、過酷な抗争の世界に身をさらすことになりました。そこから、日本にとっての、真の近代が始まります。

日本文明が200年以上、一度も戦争のない社会を作ったのに対し、西洋文明は、15世紀からの500年間、約1年8ヶ月に1回の割合で戦争を繰り返していました。そこに両文明の根本的な違いを見ることができるでしょう。現代世界は、依然として対立・抗争の中にあります。そこにおいて、日本文明が生み出した「江戸システム」は、「技術の進歩は決して止められない」という現代人の思い込みへの反証となっています。

15世紀から20世紀まで、世界を支配したのは、西洋近代文明の原理でした。すなわち、暴力と収奪に基づく対立と抗争の原理です。しかし、この21世紀には、江戸日本的な原理、すなわち共存と調和の原理が世界に広まることが期待されています。



(1) 川勝平太著『文明の海洋史観』(ダイヤモンド社)

参考資料

・ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』(中公文庫)
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鉄砲製造で西欧から自衛、国内を統一

鉄砲製造で西欧から自衛、国内を統一



ヨーロッパは、15世紀から世界に進出しました。その過程は、白人種による有色人種への暴力と収奪の歴史でした。西欧文明と出合う前、中央アメリカの人口は7千万人から9千万人あったと推定されていますが、スペイン人の侵入後、わずか1世紀の間に、350万人に激減したと見積もられます。またアフリカから奴隷として拉致された黒人は、3千万人から6千万人に及び、その3分の2が航海途上で死亡して、大西洋に捨てられたといわれます。有色人種の犠牲者数は、世界大戦の死亡者数さえ上回ります。

こうした暴力と収奪によって、西欧文明は、大陸間の支配構造を作り出しました。アメリカの社会経済史家ウォーラーステインは、これを「近代世界システム」と呼んでいます。「近代世界システム」は、1450年頃から1540年頃までに形成されました。この支配体制は、西欧を中核とし、アジア・アフリカ・ラテンアメリカを半辺境または辺境としています。そして、この構造の中で、近代資本主義が発達し、産業革命によって支配体制を完成させました。

外に向かって侵略と搾取をし続ける西欧諸国は、お互いの間でも戦争が絶えませんでした。とりわけ17世紀前半の三十年戦争(1618-48)は、キリスト教の新教国・旧教国が参戦して大戦争となり、ドイツの人口が3分の1になるという悲惨さでした。

川勝平太氏(国際日本文化研究センター教授)によると、西欧文明による「近代世界システム」では「戦争と平和」という観点から世界秩序が構想されました。この構想を最初に体系化したのは、オランダのグロチウスの著書『戦争と平和の法』(1625)でした。時まさに三十年戦争のさなかでした。この理論をもとにして、1648年にウェストファリア条約が結ばれました。以来、ヨーロッパでは、戦争を世界観の柱として国際関係が律せられることとなりました。これが現在に続く主権国家体制です。主権国家同士の戦争は、1480年から1950年までの460年間に278回にのぼります。約1年8ヶ月に1回の割合で戦争が起こっていた計算となります。当然、莫大な軍事支出が必要となり、1650年代のイングランドは歳出の90%を、フランスのルイ14世は75%を軍費に充てていたといいます。

 

こうした侵略的・攻撃的な西欧文明から自らの文明を守ることは、容易ではありません。力には力で対抗して身を守らないと、虐殺あるいは支配されてしまいます。ラテン・アメリカでマヤ文明・アステカ文明などが滅ぼされ、アフリカやインドの有色人種が家畜のような奴隷労働をさせられたのは、力に対し自らを防衛する能力を欠いていたためでした。

そのなかで、日本人は西欧文明に出会った時から、見事に対応し、自衛を行いました。13世紀の元寇の記憶が働いたのかも知れません。天文12年(1543)、ポルトガル人が種子島に鉄砲(火縄銃)を伝えると、領主・種子島時堯(ときたか)はポルトガルから鉄砲を購入し、刀鍛冶に命じて1年後には10挺の鉄砲を作らせています。それから10年もすると、日本中の刀鍛冶が鉄砲を大量に製作し始めました。そして、16世紀後半には、日本は世界最大の鉄砲の生産・使用国となっていました。当時、地球を二分割していたポルトガル、スペインも、日本の軍事力を見て侵略を諦めざるをえませんでした。

これほど早く鉄砲製造の技術を習得し、また自力生産できた理由は何でしょうか。武士が政治・社会の担い手であり国防意識が高かったこと、戦国時代だったので武器の需要があったこと、高級な刀剣の作成により技術水準が高かったこと、国内で品質の高い銅・鉄を産出していたこと、人口が当時の西欧のどの国より多く教育程度も高かったことなどが挙げられるでしょう。

日本人は物真似ばかりで独創性がないといわれますが、単にコピーするのではなく、さらに良いものに改良してしまうところに、日本人の真骨頂があります。鉄砲についても、わずかのうちに、発砲装置の改良や、雨の中でも銃を撃てる雨よけ付属装置の考案などをします。

アメリカの銃砲専門家のロバート・キンブローは、次のように言っています。「この改造銃は、近代の火薬を使っても暴発しなかった。昔の日本の職人の技術は、最高級の賛美に値する」と。

 

鉄砲を使った戦法も世界一でした。天文3年(1575)、織田信長は、長篠の戦いで武田の騎馬武者を駆逐しました。この時、信長は3千人の鉄砲隊を3分隊に分けて、一斉射撃を繰り返す戦法を用います。この戦法は、当時の西欧の数段上を行っており、西欧で同様の戦法が見られるのは、約350年後の第1次大戦のドイツ軍だったといいます。それほど日本の軍事技術は先駆的だったのです。

豊臣秀吉は、この軍事力をもって戦乱の世を治め、国内を統一しました。さらに朝鮮の役で海外に進出を試みました。しかし、これに失敗すると、徳川家康は対外的な進出を止め、内政充実の政策を取ります。さらに、幕府は「鎖国」をして「近代世界システム」から離脱します。そして、西洋諸国が内では戦争を繰り返し、外へは植民地獲得に明け暮れていたころ、江戸日本は、戦争のない平和な社会を実現していたのでした。

日本文明は、「鎖国」のなかで、自らの個性を保ち、じっくりと熟成していったのです。


参考資料

・川勝平太著『日本文明と近代西洋』(NHKブックス)

・川勝平太著『文明の海洋史観』(中央公論社)

・ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』(中公文庫)
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日本の勤勉革命と西欧の産業革命

日本の勤勉革命と西欧の産業革命



日本も西欧も、近世(16〜18世紀)はアジアからの文物に依存していました。しかし、ともに貴重な輸入品だった木綿・砂糖・茶・生糸を生産することに成功しました。それによって、それぞれアジア経済からの自立を成し遂げました。川勝平太氏は、そこに世界史の近代が開始されたとし、「近代はアジアの海から誕生した」と表現しています。自立の仕方は、日欧で異なっていました。その違いを見てみましょう。

ヨーロッパは、ヴェネチアの時代から18世紀にかけて、イスラムの栄えるアジアに対し貿易赤字を続け、経済的外圧に苦しみました。近代(川勝氏の意味では1800年以降)とは、「この東方からの荒波を逆転させた時代」だと川勝氏は言います。逆転を起こしたものこそ、産業革命でした。

産業革命は、新大陸の発見以来の西欧を中心とした中心―周縁構造の中で、勃発しました。しかし、産業革命が起こった要因には、西欧の社会における内発的な変化があります。西欧では、中世末期に封建制の農村において工業が発生し、徐々に封建制が突き崩され、封建制から資本主義への移行が起こりました。この先端を行ったのがイギリスです。イギリスでは16世紀にマニュファクチュアーが発達し、毛織物の生産が盛んになりました。それによって貨幣が流通して商品交換が一般的になりました。この過程で、共同体が解体され、中間生産者層が資本家と賃金労働者に両極分化し、産業資本が発生し、資本主義的な生産関係が生まれました。やがて毛織物に代わって木綿製品が有力な国際商品となりますが、イギリスはアジアから輸入していた木綿製品を自力で生産するようになったのです。そこに起こったのが、産業革命です。

産業革命は1760年代に毛織物工業で始まり、次に綿工業において本格的に進行しました。紡織機の動力は水力から蒸気力に替わり、化石燃料である石炭が利用されるようになりました。動力革命・エネルギー革命は、交通革命をも引き起こし、陸には蒸気機関車、海には蒸気船が登場しました。

産業革命が進行したのは1800年前後のことです。その結果、アジアからの輸入物産の自給生産が可能になり、東インド貿易の構造が一変しました。従来西欧は、16〜17世紀中葉までは、銀と胡椒・香辛料を交換し、17世紀後半から18世紀においては、銀と木綿を交換していました。しかし、産業革命によって逆転が起こり、イギリスがアジアに木綿を輸出し、東方から銀を手に入れたのです。それによって、西欧はアジア経済から自立し、非西欧地域を完全に中心―周縁構造に組み込み、圧倒的な大発展をしていったのです。そして、17世紀に起こった科学革命による諸発見が、資本主義的な産業経営に応用されるようになると、地域差はとめどなく広がるようになりました。人類史上、最も強力な文明が、西欧に確立したのです。

さて、西欧文明が外に向かったのに対し、日本文明は内に向かい、活動の舞台を自国に閉じるという正反対の方向に進みました。木綿と砂糖と茶と生糸を外から持ってくるのではなく、国内で自給するという方向です。日本の豊かな自然環境がそれを可能にしました。

15世紀から海洋アジアに進出していた日本は、自国にまでやってきた西欧文明と出会うと、当初は鉄砲などを積極的に取り入れました。東南アジアに進出した日本人は、日本人町をつくりました。しかし、豊臣秀吉や徳川家康は、キリスト教の布教を警戒するようになり、徳川幕府は17世紀前半に「鎖国」を断行しました。「鎖国」は、キリスト教の布教を行うとするカトリック諸国とは絶交し、商業活動だけを目的とするオランダとは交易を行うという外交戦術でした。

川勝氏によると、鎖国には「当時豊かだったアジアに物質的なものを依存していた日本が、アジア経済から鎖国を通じて自立していく過程という面」がありました。鎖国は「当時の世界史の大きな動向に対するひとつの対応」だったというのです。そして、西欧文明が資本集約型の経済を発展させ、労働生産性が世界一の水準になったのに対し、日本文明は労働集約型の経済を発展させ、土地生産性が世界一の水準になりました。

こうして、川勝氏によると、「西洋が『産業革命(industrial revolution)』を背景にアジアに進出してアジアの豊かさを収奪していくのとは対照的に、日本は国内を『勤勉革命(industrious revolution)』によって豊かにしていくというコースを辿った」のです。

この二つの革命は、ともに生産革命でした。産業革命は資本集約型であり、大量の石炭を消費するエネルギー資源消費型の生産革命でした。これに対し、勤勉革命は、資本を節約し、資源をリサイクルすることに工夫をこらした生産革命でした。ともに「人類史上、生産革命によって、経済社会を形成した点において、対等の文明史的意義を持っています。

川勝氏によると、15世紀以来、ヨーロッパはインド洋から、日本はシナ海から、それぞれアジアの外圧を受けていました。その外圧をはねのけるのに成功した時期は、ほぼ1800年頃とされます。それが近代の初めです。そして、西欧文明は本格的に植民地支配を広げていくのに対し、日本文明は自給自足体制を築き上げていきました。この体制は「江戸システム」(鬼頭宏氏)と呼ばれます。

「江戸システム」は、約260年間も戦争のない平和な社会(島原の乱からは約230年)、自力更生の経済、リサイクルに徹した環境保全という世界に類のない文明を創造しました。そして鎖国というかなり閉鎖的な環境において、江戸文化という独自の日本文化が爛熟しました。歌舞伎・浄瑠璃・俳諧・日本的儒学・国学など、日本文明の個性そのものです。近松門左衛門、松尾芭蕉、伊藤仁斎、本居宣長など、全く日本的な思想・文化が満開しました。

こうした日本に対し、近代化した西洋文明が改めて押し寄せてきました。より正確に言うと、欧米の近代西洋文明が日本に押し寄せたのです。ロシアやイギリス等の船が来航するようになり、遂にアメリカの黒船が来て、砲艦によって日本に開国を迫りました。日本は鎖国をしつつもオランダを通じて海外の情報は得ていたものの、この間、西欧では近代科学が登場し、産業革命が起こり、経済・技術・軍事等で圧倒的な差ができてしまっていたのです。

ここに、日本文明は、近代西洋文明による「試練」(challenge)を受けることになりました。人類史上最強の文明の挑戦です。白人の植民地化・奴隷化に陥るか、それとも独立を保ち独自の文明で対抗してゆけるか。明治維新は、こうした世界文明史的な大事件でした。





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近代はアジアの海から生れた

近代はアジアの海から生れた



日本文明と西欧文明は、文明史を並走し続けながら、世界史の近代を切り開いていきます。この近代という時代について考えるには、海の存在を視野に入れる必要があります。

このことを提唱したのが、川勝平太氏(国際日本文化研究センター教授)です。氏以前には、近代西欧の歴史を、ヨーロッパ大陸における経済的・社会的変化を中心にとらえていました。いわば陸地を中心とした「陸地史観」です。これに対し、川勝氏は、海洋の重要性に目を向けた「海洋史観」を提唱しています。海洋史観をもって近代の発生を見ると、これまでとはまったく異なったことが見えてくるというのです。

川勝氏は、16世紀以降を広義の「近代」とし、その前半となる16世紀から1800年頃までを「近世」、1800年頃以降を狭義の「近代」としています。(1)

そして、川勝氏は、次のように述べています。「近代はアジアの海から誕生した。より、正確にいえば、海洋アジアからのインパクトに対するレスポンスとして、日本とヨーロッパに新しい文明が出現した」と。

上記の引用における「近代」は、狭義の「近代」つまり19世紀以降の時代を意味します。

氏の海洋史観を参考にしながら、日欧両文明を対比してみましょう。

ヨーロッパは、14世紀にイタリア・ルネサンスが始まり、ようやく文明としての個性的な創造力を発揮するようになりました。1497年、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰航路を発見すると、西欧は大航海時代に入り、アジアの物産をインド回りで直輸入できるようになりました。それまではインド洋世界ではイスラム教徒を主とする三角貿易が行われていました。イスラム教徒は西アジア、東南アジア、東アジアを結ぶ壮大な商業圏を作り上げていたのです。しかし、新航路を発見した西欧人は直接、東南アジアを中心とする海洋アジアから物産を輸入できるようになりました。

交換するのは、銀が主です。16〜17世紀中葉までは、銀と胡椒・香辛料が交換されました。銀は、ヴェネチアの栄えた時代には南ドイツから、新大陸が発見されてからは新大陸から運ばれました。17世紀後半から18世紀には、木綿と砂糖と茶と生糸が主な商品になりました。銀と引き換えにこれらを手に入れることにより、西欧では、衣料・食物などの生活様式が大きく変わりました。

ここで重要なことは、西欧人が、西欧とアジアをアメリカ大陸に結びつける構造を作り出したことです。これこそ暴力と収奪によって非西欧地域を支配する仕組みでした。西欧諸国が帝国の中心部となり、非西欧地域が、帝国の周縁部となる構造です。この中心―周縁構造の植民地支配によって、西欧文明は繁栄しました。西欧の白人は、新大陸から銀を奪い取り、アフリカの黒人を奴隷として働かせました。資源の略奪と強制労働によって、暴力的に富を蓄積していったのです。この構造は、人類史上初めて真に世界規模でつくられた「世界システム」の名に値するものです。

古代ローマ帝国、漢帝国等は地域的なものであり、またいずれも政治中心のシステムでした。しかし、15世紀から西欧文明が進出して作り出したのは、経済中心の世界システムでした。これこそ、近代世界資本主義です。近代資本主義は、最初から大陸間にまたがる中心―周縁の構造の中で発達したものです。アメリカの社会経済史家ウォーラーステインは、この構造をとらえて、「近代世界システム」と呼んでいます。

彼によると、近代世界システムは、「長期の16世紀(1450〜1640年頃)」に、大西洋を囲む地域に西欧を中核、その他の地域を辺境、半辺境という三層構造に編成して成立したものです。

この「近代世界システム」の形成過程において、西欧諸国の間で覇権の移動が起こりました。新航路の発見によって胡椒の価格が暴落すると、イタリアが衰退しました。東方貿易の中心はスペイン・ポルトガルに移りました。これにより、16世紀前半を境に、イタリア・ルネサンスは急速に衰退しました。しかし、イタリアで花開いたルネサンスは、北方のヨーロッパ諸国に伝播し、16世紀には西欧ルネサンスを生みました。イギリス・ドイツ・フランス・オランダ・スペイン等で、文芸・美術等に優れた作品が生まれました。覇権はオランダからさらにイギリスへと移行しました。

この間、西欧では、文化・社会・政治・経済に及ぶ文明の大変化が起こりました。すなわち、ルネッサンスに続く、15〜16世紀の宗教改革、17世紀の科学革命や市民革命、18世紀の産業革命等の一連の変化です。一言で言うならば、近代化です。近代化とは、マックス・ウェーバーによれば、生活全般における合理化の進展です。この西欧における近代化、換言すると近代西洋文明の誕生は、15世紀末からのアジア・新大陸への進出と、それによる収奪の上に進行した現象でした。

さて、ユーラシア大陸の東部では、シナ文明が繁栄を続けており、海洋はその支配下にありました。13世紀に世界に覇を誇った元(モンゴル)が亡んだ後、14世紀から17世紀にかけて明が栄えました。日本は11世紀の宋に続いて、元・明とも貿易を続けました。そして、ちょうど西欧が大航海時代に入った時代、日本もまた海洋アジアとの交易を始めました。それによって、アジアの文物が直接入り、ヨーロッパと同様に生活様式が大きく変化したのです。

日本人は海洋アジアを天竺・南蛮と呼び、西欧人は東インドと呼びました。両者は、近世成立期の海洋アジアという同じ時空を共有していたのです。日欧はともに貨幣素材を輸出して、海洋アジアから物産を輸入していました。この交易は、日本にとっても西欧にとっても、膨大な銀の流出となりました。出超による赤字が続いたのです。西欧は、この銀を新大陸から収奪し続けました。

これに対し、当時の日本は、世界有数の金山・銀山を持っていました。自給の貨幣素材による交易を行っていたのです。また、日本は、西欧と異なり、異民族を大量虐殺したり、奴隷として強制労働させたりはしませんでした。白人がしたような植民地の獲得・支配は、まったく行いませんでした。この点は、日本文明と西欧文明の顕著な相違となっています。



(1) 西洋史では、歴史を古代・中世・近代と三つに分け、14世紀ルネサンスあるいは17世紀科学革命以降を「近代」と区分する人が多い。日本史では、江戸時代あるいは安土・桃山・江戸時代を「近世」とし、明治時代以後を「近代」とすることが多い。





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日本の武士文化、西欧のルネッサンス

日本の武士文化、西欧のルネッサンス



日本と西欧は、文明史を並走して13世紀を迎えます。ここで、世界を揺るがす大事件が起こりました。モンゴル族によるユーラシア大陸の制覇です。

ヨーロッパでは、モンゴルの来襲を受ける前、8〜9世紀のカール大帝の時代に封建制が確立し、11〜13世紀にその最盛期を迎えました。封建制のもと、騎士道の精神が生まれました。ヨーロッパの騎士たちは十字軍の遠征をし、イスラム文明に侵攻する武力を誇っていました。

しかし、モンゴルの強さは圧倒的で、ハンガリーが占拠され、ポーランド・ドイツ騎士団諸侯連合軍も敗れました。1241年4月のことです。翌年、モンゴル軍はウィーン郊外まで達し、ヨーロッパは恐怖のどん底に陥りました。ところが、ここでモンゴル帝国の皇帝オゴタイ(チンギス・ハンの三男)が逝去し、モンゴル軍は撤退を始めたのです。もしオゴタイの死がなければ、西欧はモンゴルの大侵略を受けたことでしょう。

日本には、二度、モンゴルが来襲しました。元寇です。皇帝フビライ(チンギス・ハンの孫)の指揮下、元軍は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の二度、日本列島を襲いました。当時、日本にも西欧に似た封建制が発達していました。封建制は平安時代後期の荘園制に胚胎し、12世紀末鎌倉幕府のもとで確立しました。その担い手は武士です。

武士の間には、主従の強い感情的結合があり、武士道が発達していました。彼らは英雄・北条時宗の下、当時世界最強のモンゴル軍に対抗し、善戦防衛しました。そして、二度とも台風という天佑によって、日本は守られました。こうして日欧はともにモンゴルの大侵略を受けずに済んだのです。

ヨーロッパは、8世紀からイスラムの圧力によって、地中海から閉め出され、陸地に封じられていました。しかし、十字軍の兵士や物資の輸送によって北イタリアの都市が発達するようになり、フランドル低地諸邦との間に交易路が開かれ、商業が復活しました。そして、イスラムとの交易が盛んになり、ヴェネチア・ジェノヴァなどが東方交易の拠点として発展しました。特に肉食中心の西欧人にとって、風味を増す上に防腐効果のある胡椒などの香辛料は珍重されました。それ以上に胡椒は、医薬品として用いられていたのです。

船旅の冒険と投機によって莫大な富を得た新興商人たちは、西ローマ帝国滅亡以来の停滞を破り、新しい文化を生み出しました。それが、14世紀のイタリア・ルネッサンスです。

トインビーは、ルネサンスについて、「子文明」による「親文明」の「再生」という見方をしています。子文明が危急に際して、親文明に助けを求め、親文明の理念・制度・思想・芸術・技術などをよみがえらせて危急に対処することを、ルネサンスとみなしたのです。

西欧はルネサンスによって、千年近い低迷から抜け出し、ようやく一つの文明としての個性を表わしました。12世紀以来、アラビア文明経由で摂取して来たギリシャ=ローマ文明の遺産が基になり、創造性を発揮できるようになったのです。文芸のダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、美術のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロら、綺羅星(きらぼし)のような天才たちが輩出しました。ルネッサンスはやがて南欧から西欧へと広がります。

一方、日本では、実権を担う武士の気風により、独自性の高い文化が一層発展しました。12世紀から13世紀にかけて、彫刻には運慶・湛慶らの写実的で力強い表現が見られ、建築では大仏様(だいぶつよう)・禅宗様(ぜんしゅうよう)、絵画では絵巻物が最盛期を迎えました。とりわけ個人を描く写実的な似絵(にせえ)には傑作が現われ、藤原隆信の「平重盛像」は、アンドレ・マルローがモナリザに匹敵すると激賞しています。

元寇以後は、台風が勝利に導いたことにより、神国思想が高揚し、神道に理論的な発達を見ました。仏教は土着化されて、鎌倉仏教が登場しました。法然・親鸞・日蓮・道元・一遍らの仏教は、もはやインド・シナの仏教とは明らかに異なる日本的な仏教に変じています。この時代、日本文明の個性は鮮やかに花開きました。それが14〜16世紀には、能や茶の湯などにおいてさらに精神的に深められていきます。

こうして日本文明と西欧文明は、ユーラシア大陸の東西の端において、各々周辺文明から主要文明へと成長し、それぞれの個性を開花していったのです。



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日本文明は西欧より早く独自性を発揮

日本文明は西欧より早く独自性を発揮



現在は世界的に近代西洋文明が広がっているので、ヨーロッパが昔から世界の中心であったかのように錯覚しがちです。しかし、今から5百年ほど前には、文明の中心はユーラシア大陸の主要部であるインドやシナ、イスラム地域にありました。また、西欧文明はギリシャ=ローマ文明と単純に連続しているように理解されがちですが、両文明には明らかに断絶があります。実際、ローマ帝国の崩壊とともに、ギリシャ=ローマ文明は滅びました。地中海はイスラムの海となりました。

イスラムの繁栄は8世紀から15世紀末まで約8百年間も続きました。この間、ヨーロッパはユーラシアの諸文明の辺境にある遅れた地域に過ぎませんでした。文化的には、隣接するアラビア文明よりずっと劣っていたのです。

私たちは、意識深く刷り込まれた西洋中心の文明の見方を修正しなければなりません。

西欧文明は、ギリシャ=ローマ文明とは、異なる民族が生み出したものです。西欧に移住したゲルマン民族は、徐々にキリスト教化していきました。5世紀末に、フランク王国の国王クローヴィスがカトリックに改宗したことにより、キリスト教の浸透が進みました。

8世紀前半には、ボニファチウスがドイツに宣教しました。この時、従来のゲルマン民族の信仰が否定されました。自然崇拝・祖先崇拝の喪失です。日本文明は、仏教・道教・儒教を導入しても自然崇拝・祖先崇拝を保持したのに対し、西欧文明の場合は、自然崇拝・祖先崇拝という本来の心を失いました。このことが、西欧文明に自然支配や個人主義という強い特徴を与えたのです。

西欧のキリスト教徒は、聖地回復という理想の下、1096年から1270年のおよそ200年の間、十字軍の遠征を行いました。彼らは、回教徒への侵攻・殺戮・略奪を繰り返しました。

当時はアラビア文明の方が、ヨーロッパよりはるかに高い文化を持っていました。西ローマ帝国滅亡後、生き残ったビザンツ帝国の文明を、イスラム地域は積極的に摂取・消化しました。野蛮なキリスト教徒たちは、イスラム地域に保存されていた親文明の遺産を持ち帰ったのです。

このアラビア文明経由のギリシャ=ローマ文明の摂取が大きな刺激となり、ヨーロッパでは「12世紀ルネサンス」と呼ばれる活発な知的運動と文化の興隆が起こりました。古代の哲学・科学・法学・文学等の文献が、積極的に翻訳されました。このことによって、西欧文明は文化的離陸が可能になったのです。ギリシャ=ローマ文明⇒西欧文明という二段階の見方は、ギリシャ=ローマ文明⇒アラビア文明⇒西欧文明という三段階の見方に補正する必要があります。

さて一方、日本文明は西欧文明より早く、7世紀には既に自立性を示していました。8世紀には『古事記』『日本書紀』、9世紀には『万葉集』という日本文明を代表する文献が生み出されています。最初は漢文で表記されていましたが、やがて漢字から表音文字を取り出して音を表わす道具にします。さらに9世紀から片仮名・平仮名が発明・使用されました。これは漢字から仮名を発明するという画期的な文化創造でした。

寛平6年(894)に遣唐使を廃止して、シナ文明からの文化輸入をやめると、シナ文化の和風化が進みました。いわゆる国風文化の創出です。遣唐使廃止のわずか9年後の延喜5年(905)には、醍醐天皇の勅命により、わが国初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編集が開始されました。ここに漢字かな混じり文が登場しました。このことによって、日本語(大和言葉)を自由に表記できるようになったのです。そして10〜11世紀には仮名文字を自在に用いた、華麗なる王朝仮名文学が花開きました。この時代、ユーラシアの東端において、紫式部・清少納言らが活躍したことは驚異的です。ヨーロッパで女性による小説が登場したのは、その約7百年も後のことでした。文字や文学だけでなく、シナ文化の土着化・日本化は広く進み、建築では寝殿造り、彫刻では寄木造、絵画では大和絵、服装では衣冠束帯・十二単(じゅうにひとえ)等が出現しました。こうして、日本独自の文化が次々に生み出されたのです。

12世紀に西欧文明がアラビア文明の力を借りて、ようやく文化的離陸を始めようとしていた時、日本ではすでに『源氏物語』をはじめ、世界の文明史に明確な個性を刻印する文化が創造されていました。13世紀の鎌倉時代には、一層その個性を大きく発揮していきます。

このように4世紀頃から12世紀までの過程を見ると、日本文明と西欧文明がユーラシア大陸の東西で並走してきたことがわかります。そして、この間、日本文明の方が文化程度は高く、また自立性や独創性を早くから発揮していたことが注目されるのです。




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言霊の幸はふ国

言霊の幸はふ国



古代の日本人は、アニミズムとシャーマニズムに基づく信仰を持っていました。アニミズムとは、自然界のあらゆる事物には霊魂や精霊が宿り、諸現象はその意思や働きによるものとみなす信仰です。シャーマニズムは、祖霊や精霊と接触・交流する能力を持つ職能者を中心とする信仰であり、制度化され、体系化されたアニミズムであると考えられます。一言で言えば、職業的霊能者を中心とした精霊信仰です。祈りを捧げる者がシャーマンであり、捧げる対象が精霊(アニマ)です。

日本のアニミズム的・シャーマニズム的な世界観においては、言葉が重視されました。古代の日本人は、言葉には霊的な力が宿っていると信じていました。それが言霊(ことだま)の思想です。言霊とは、言葉に宿る不思議な霊威であり、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられていたのです。言霊がその力を表わすのは、祈りによってです。祈るとは「斎(い)告(の)る」の意味であり、神の名を呼び、幸いを請い願うことです。祈りの言葉はそれ自体に霊力があると考え、祈ることによって、言葉に内在された霊力が働いて、祖霊や精霊に感応すると考えたのでしょう。

言霊の思想は、『万葉集』に見ることが出来ます。山上憶良の「好去好来歌」に次のようにあります。

 

神代よりいひ伝(つ)てけらく 空見つ大和の国は すめらぎのいつくしき国 言霊の幸はふ国と 語りつぎいひつがひつつ 今の世の人もことごと 目の前に 見たり、知りたり(以下略)

この歌の大意は、「神代の昔から言い伝えて来たことだが、日本の国は、天皇の祖先神の神威がゆるぎない国であり、言霊の霊妙な働きによって幸いをもたらす国だと語り継ぎ、言い伝えてきた。このことは、現代の人も、みな実際に見てもいるし、知ってもいる」となります。ここで、憶良は、日本は「すめらぎのいつくしき国」であるとともに、「言霊の幸はふ国」だとしています。「すめらぎ」と「ことだま」の関係は、天皇(すめらぎ、すめらみこと)は宗教学的にはシャーマンに当たり、言霊を振るって神々に祈る最高位の神主と考えられます。

「言霊の幸はふ国」だという認識は、『万葉集』に広く見られます。皇族の代作歌人・柿本人麻呂の歌にも次のようにあります。

磯城島(しきしま)の 大倭(やまと)の国は 言霊の助くる国ぞ まさきくあれ

(大意: この日本という国は、言霊が助けてくれる国である。幸多かれ)

この歌は、祝福の言葉を唱えるならば、必ずその言霊の働きによって幸いが実現するという信仰に基づいているのでしょう。

 

わが国の文化を最も良く表わすものの一つが和歌ですが、和歌の根底には言霊の思想があります。『古今集』の序にもそれが表れています。その冒頭部は、次のように記されています。

「大和歌は、人の心を種として、万の言の葉となれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞く物につけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鴬、水に住む河鹿の声を聞けば、生きとし生ける物、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛きもののふの心をも、慰むるは歌なり」

最後部分の大意は、「全く力を入れることなく、天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の関係を和らげ、勇ましい武人の心をも慰めるのは和歌である」となります。この「力をも入れずして、天地を動かし」いう一句には、言霊の思想がよく表れています。

言霊の思想は、古代で消滅したわけではありません。現代でも、願いは必ず実現する、信念は必ず実現すると信じている人が少なくありません。そう信じて実行したという成功体験は多数あります。祈りの効果は、欧米における数々の実験によって、科学的に認められています。言葉の力を信じ、祈りに思いを込めるという点では、現代の私たちにも言霊の思想に通じるものがあるといえるでしょう。


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仮名の発明に見る日本文明の特質

仮名の発明に見る日本文明の特質



今日私たちは、漢字と仮名と英文字とが混ざった文章を、ごく自然に使っています。実は、この日本語の在り方の中に、日本文明の特質が集約されているのです。


 わが国では、いつごろから文字が使われるようになったのでしょうか。最初はもちろん漢字の受け入れから始まりました。紀元後1世紀の半ばのものである「漢委奴国王」の金印が北九州で出土しています。ですから、このころには、シナ文明の文字文化を受容していたのでしょう。大和朝廷の時代には、相当広く文字が使われ、5世紀半ばには、部分的とはいえ、訓仮名の使用が始まっていたと見られています。

 訓仮名とは、漢文をその語順のままシナ語の発音で読むのでなく、日本語の語順に読み替えてしまい、単語によっては大和言葉に移し替えながら、和訓で読むわけです。この訓読という方法は、外国語を受け入れながら、それを自国の言葉の規制下に置こうとするものです。訓読によって、わが国は、外国語より自国語が下位になる二重言語(バイリンガル)国家に変貌するのを防ぐことができました。そして、漢字を通じてシナの高度な文明を導入しながらも、大和言葉に込められた日本文化の主体性を失わずに済んだのです。むしろ外国語を自国語の中に取り込んでしまうことによって、日本語そのものをさらに豊かにできたのです。ですから、訓読はそれ自体、素晴らしい発明でした。実に主体的な方法によって、漢字の習得・使用が勧められたのです。


 その後、日本人は漢字を使いこなし、8世紀には『古事記』『日本書紀』という日本文明を代表する文献を生み出しました。記紀は漢文で表記されていましたが、やがて日本人は漢字から表音文字を取り出して、音を表わす道具にします。9世紀初めには、『万葉集』の編纂が始まります。『万葉集』では、漢字を表音文字として使う真仮名(いわゆる万葉仮名)が駆使されています。さらに、日本人は、漢字をもとに、独自の文字を作ってしまいます。9世紀には、片仮名・平仮名が発明・使用されました。これは画期的なことでした。日本人は、独自の文字を手にしたのです。


 9世紀末、寛平6年(894)に遣唐使が廃止されました。7世紀の遣隋使以来、積極的にシナ文明を摂取する文化活動は、ここに区切りを迎えました。遣唐使廃止の前年に出た『新撰万葉集』上巻は、漢字のみで表記されていました。ところが、その約10年後の延喜5年(905)には、平仮名を使った『古今和歌集』の勅撰が始まりました。『古今集』は、わが国初の勅撰和歌集であり、醍醐天皇の勅命によって収集・編纂が行われました。そして、ここでは、漢字に混じって仮名が使われています。いわゆる漢字かな混じり文の登場です。仮名を作っても、漢字の使用を止めるのではなく、漢字と仮名を両方とも使うのです。このことによって、日本語(大和言葉)を漢字と仮名で自由に表記できるようになりました。


 言語学者の鈴木孝夫氏は、次のように評価しています。

 「日本語の仮名のように、借用した文字を、すべて痕跡を止めないほど改変して、自分の音韻体系に合致した新たな文字を作り出した例は少ないのみならず、元の素材である文字をも、そのまま用い続けるという二重構造は他に例を見ない」(註1)

 これは日本文明の創造力と包容力をよく示す事実です。

 拓殖大学客員教授の高森明勅氏は、以下のように書いています。

 「仮名の創造は日本文明の独特な発展に大きな貢献をしている。そのなかでも大切なのは、大和言葉(和語)の保存だ。‥‥日本人のながい精神生活からうまれ、生長してきた和語には、たんなる意味や概念におきかえることのできない情感がひそんでいる。仮名はそれを守り、伝える力をもった」(註2)

 仮名は、日本文明がシナ文明から自立するための土台となったともいえます。


 作家の山本七平氏は、「日本文化とは、何か。それは一言で言えば、『かな文化』であり、この創出がなければ日本は存在しなかった」とまで言っています。(註3)

 優れた比較文化学者でもある渡部昇一氏は、次のように述べています。

 「漢文・漢詩という外来のシナ文化が浸透し、それが完全に日本の文化として消化した時、『漢字混じりかな書き』という表記法が確立されていくのです」「しかも、漢字は、漢読みである音(おん)と和読みである訓(くん)が全く分けられて使われるのではなく、渾然として、つまり音訓自在に読まれていくのです。そういう芸当が抵抗なく日常で行われるようになっていくのです。表音文字と表意文字を混ぜるということからして奇異なのに、同じ漢字を何様にも読むというのですから、これは妙なる共存と呼ぶしかありません」(註4)


 渡部氏の「妙なる共存」とは、言いえて妙な表現です。日本は、仏教等の外来の宗教が入ってくると、固有の宗教である神道と共存・融合させました。また、近代になって、西洋文化が入ってきても、日本文化・東洋文化と共存・融合させています。いずれも日本独自のものを基盤あるいは容器として、外来のものを採り入れ、調和させてしまうのです。こうした日本文明の調和の力を最もよく表わしているのが、日本語における文字と表記ということができましょう。



(1)鈴木孝夫著『閉ざされた言語・日本語の世界』(新潮社)

(2)高森明勅著『歴史から見た日本文明』(展転社)

(3)山本七平著『日本人とは何か。』(PHP研究所)

(4)渡部昇一著『人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)

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日本と西欧は文明史を並走

日本と西欧は文明史を並走


日本文明と西欧文明は、ユーラシア大陸の東端と西端にあって、長く歴史を並走してきました。そこには、相似と相違の両面が見られます。

文化人類学者の梅棹忠夫は、生態史観による比較文明の理論を提示しています。そのモデルによると、ユーラシア大陸は、東西の両端にある第1地域と、乾燥地帯を含む第2地域に区分されます。第1地域とは、日本と西欧です。第2地域は、乾燥地帯を除く地域が、イスラム世界、ロシア世界、インド世界、シナ世界の4つに分けられます。さらにこれに、東欧と東南アジアが加えられ、6つの世界に区分されます。

 梅棹が注目するのは、第2地域の存在の重要性です。この地域は、「遊牧民の間欠的に暴発する暴力的破壊によって、大帝国ができては消え、できては消えるという歴史をへてきた」といいます。これに対し、 「第1地域はそのような破壊は経験していない。そこでは文化が蓄積され、それぞれ独自の発展を遂げることができた。ことに封建制がこの地域では発達し、それが各地の文化の発展を促した。西ヨーロッパと日本だけが、封建制の平行的な発展をたどっている」というのです。

梅棹モデルでは、東洋と呼ぶ地域は日本を中心とした東アジアに限定され、西洋は西欧に限定されます。そして、東洋と西洋の間は「中洋」と呼ばれます。そして、「中洋」に乾燥地帯やイスラム、ロシアなどが入ります。

さて、こうした見方を加えると、日本文明と西欧文明の対比は、一層明瞭になってくるでしょう。両文明が並走してきた過程を比較してみましょう。

文明史家トインビーは、世界の諸文明の中には、継承関係にある文明があるとしました。ちょうど親子のように、前の文明がもとになって、次の文明が生まれるという場合です。西洋では、地中海地域にギリシャ=ローマ文明が起こり、その後、それを受け継いでヨーロッパ大陸部に西欧文明が誕生しています。東アジアでは、シナ大陸にシナ文明が起こり、その影響を受けて日本文明が誕生しました。このように、日本文明と西欧文明は、それぞれの地域の中心にある文明の刺激を受けて発生したのです。主要文明に対する周辺文明という関係です。しかし、この関係にとどまらず、次第に自立性を強め、遂には独立した主要文明となった点が、日欧両文明に共通しています。

ギリシャ・ローマ文明は、紀元前1600年頃にはじまるミケーナイ文明から発します。そして、前8世紀のホメロス、前4世紀のプラトン、前4世紀のアリストテレスまで、黄金時代を経験しました。さらにアレクサンダー大王の東征によって、ペルシャなどの東方文明と融合してヘレニズム文明をつくりました。その文明は、ローマに受継がれましたが、紀元後476年の西ローマ帝国の滅亡をもって終わりました。そして、トインビーによると、ギリシャ=ローマ文明が「親文明」となり、「子文明」として誕生したのが西欧文明です。ローマ帝国が亡んだのちに、蛮族ゲルマンが、キリスト教など先行文明の遺産を継承して、新しい西欧文明をつくったのです。

日本文明と西欧文明を具体的に比較できるのは、4世紀頃からです。ヨーロッパ大陸部には、古くからケルト族が住んでいたのですが、4世紀になると北欧のゲルマン諸族が大移動して、南下してきました。その一部はローマ帝国になだれ込みました。既に内部から腐敗していたローマ帝国は、この「外的プロレタリアート」(トインビー)の圧力を受けて衰退を早めました。そして、西ローマ帝国の滅亡(476年)にいたります。

トインビーはこうした地域帝国を「世界国家」と呼び、「世界国家」はその末期に、征服された地域に「高度宗教」を生み出し、「世界国家」の崩壊後、その「高度宗教」が蛮族に受け継がれ、次の文明の発生の核になると説いています。ここで「世界帝国」とはローマ帝国であり、「高度宗教」とはキリスト教であり、子文明の担い手はゲルマン民族でした。

ローマ帝国滅亡後、辺境のガリア地方(今のフランス)で、ゲルマンの一部族フランク族のクローヴィスが、481年にフランク王国を建国しました。そして、496年には王自らカトリックに改宗します。これによって、ゲルマン民族による新たな文明が誕生しました。それは、滅亡したギリシャ=ローマ文明を、別の民族が受け継ぐ形で始まったのです。

日本には約1万年前から縄文文化があり、世界最古の土器をつくるなど、ユニークな個性を発揮していました。シナ大陸では、紀元前5000年頃に黄河流域を中心に文明が発生し、紀元前1500年頃、殷文明が起こり、その後、周・秦・漢などの王朝が興亡を繰り返しました。その間、孔子・孟子・老子・荘子などシナ特有の思想が現れ、ギリシャ=ローマに勝るとも劣らない高い精神文化が育まれました。このシナ文明から、その周辺に文明の影響が広がり、日本列島にも及びました。

トインビーによると、シナ文明は、殷から漢までが第1世代、隋・唐以後が第2世代となります。そして、日本文明は、シナ文明を「親文明」とする「子文明」であるといいます。すなわちシナ文明の第1世代から枝分かれし、引き続き第2世代から文字・制度・宗教など多くの文化要素を取り入れることで、未開から文明へと飛躍することができたというわけです。この過程は、縄文文化を基盤として、外来の文化を受け入れ、弥生文化が発達する過程でした。

わが国では、西暦57年ころのものとして、「漢委奴国王」という金印が出土しています。これはシナの漢王朝の時代のものです。金印には、国名として「倭(わ)」の「奴国(なのくに)」が使われ、その「王」という称号が彫られており、日本がシナ文明の影響下にあることが伺われます。

シナの歴史書である『魏志倭人伝』によると、3世紀ころ、邪馬台国という国があり、卑弥呼という支配者がいたことがわかります。邪馬台国は九州にあったという説と、畿内にあったという説があり、どちらもまだ決め手がありませんが、卑弥呼は単に邪馬台国の女王ではなく、倭国の女王とされています。倭国とは対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国等々の多くの「国」をたばねた連合国家と考えられます。それは、卑弥呼が、魏王朝から「親魏倭王」に任命されていることからわかります。

同じ3世紀に、近畿地方では大和朝廷による国家ができました。やがて大和朝廷は、4世紀から5世紀までに、北九州を含む広範な地域を統合した統一国家に成長しました。シナの史書において、3世紀の邪馬台国から7世紀にいたるまで、日本は「倭国」として一貫して扱われています。その首都もおなじヤマトだったと認識されています。それゆえ、邪馬台国と大和朝廷は、国内統合の段階は異なりますが、統治の主体としては連続したものだったと考えてよいでしょう。

大和朝廷の特徴は異民族による征服王朝ではなく、豪族の連合による融合王朝であると見られます。君主は大王(おおきみ)と呼ばれ、今日の皇室の祖先と見られます。大和朝廷の時代は古墳時代と呼ばれ、仁徳天皇陵などの巨大な古墳群は、ピラミッド等の古代遺跡に比較できるものです。そして、朝鮮半島との交流や渡来人の渡航などにより、わが国はシナから漢字・仏教・道教・儒教・政治制度等、多くの文化要素を摂取していきました。

日本文明と西欧文明を具体的に比較できるのは、4世紀頃からです。そして、5世紀頃までの日欧両文明を比較すると、ともに主要文明の周辺にあり、主要文明の強い影響の下にあったことがわかります。しかし、この位置にとどまらず、日本文明、西欧文明は、それぞれ一個の文明として成長していくのです。




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自然崇拝を保持した日本、否定した西欧

自然崇拝を保持した日本、否定した西欧



日本文明と西欧文明は、ユーラシア大陸の東端と西端に位置しています。近代西洋文明は西欧に発し、北米にも広がり、地理的には西欧文明というより欧米文明と呼ぶのがふさわしいものとなります。これを近代西洋文明と呼ぶことにします。近代西洋文明とは呼ぶもののこの文明は、ギリシャ=ローマ文明と単純に連続した文明ではありません。ギリシャ=ローマ文明は滅び、西欧においてその文化要素を一部継承した文明が西欧に誕生し、それが近代化し、北米にも広がって、近代西洋文明となったものです。ここでは、発生地の西欧という地理的区域を強調するために西欧文明と呼ぶことにします。

さて、西欧文明は世界に先駆けて近代化しましたが、日本文明はこれに支配されることなく、近代化の後を追いました。そして、この二つの文明は20世紀以降の世界を、ともにリードしています。

両文明には、おのずと相違点と共通点があり、様々な角度からの比較が可能です。

まず日本文明と西欧文明の違いとは何でしょうか。文明の核心は精神であり、その精神の違いが文明の様式や価値の違いとなって表れます。そして精神文化の中核にあるのは、宗教です。日本と西欧の宗教の違いに、日本文明と西欧文明の本質的な違いが見られます。

日本の固有の宗教は神道であり、森林と海洋の息吹を受けた多神教です。ヨーロッパの宗教はキリスト教であり、砂漠生まれの一神教です。しかし、もともと西欧文明の担い手であるゲルマン民族は、日本民族と同じく、自然崇拝と祖先崇拝の信仰を持っていました。

古代の日本では、世界のどこでもそうだったように、アニミズム(精霊信仰)が行われていました。アニミズムは、自然の事物に霊魂が宿ると考える信仰です。それは自然崇拝の基礎にある考え方です。この自然崇拝の一つに、巨木崇拝があります。

日本の神社には今でもしめ縄を張った神木がありますが、古代のゲルマン民族にも似たような信仰がありました。森の中の大きな木を、神木として崇めていたのです。これは、世界に広く見られる「世界木」または「生命樹」に通じるものだったでしょう。「世界木」は世界や宇宙の全体を表わすものあり、また天と地をつなぐものという象徴的な意味を持っています。

この神木崇拝は、ゲルマン民族がキリスト教に改宗させられる過程で、否定されました。ゲルマンの部族のひとつであったフランクを統一したクローヴィスは、496年にカトリックに改宗しました。それ以降、キリスト教はゲルマン民族に広く浸透していきました。

この過程で重要なのは、8世紀の伝道師ボニファチウスです。ボニファチウスは、ドイツの使徒と呼ばれ、ドイツ地方にキリスト教を広めました。それまでゲルマン民族は多神教であり、オーディン(ドイツ名はヴォータン)を主神としていました。そして、樫の木を雷神ドールの神木としていました。ボニファチウスは、この樫の木を、ゲルマン人の目の前で切り倒してみせました。そして、キリスト教の神の力が彼らの神よりも強力であることを示して、改宗させたと伝えられます。これによって、ゲルマン民族は自然崇拝を失うことになりました。自然は崇拝すべきものではなく、人間が支配すべきものというユダヤ的な考えが植えつけられたのです。

キリスト教への改宗でもう一つ重要なことは、祖先の霊を祀(まつ)り、それと交流する祖先崇拝が否定されたことです。優れた比較文化論者でもある渡部昇一氏は、次のように書いています。「ゲルマン人の元素神にガウタズがいる。ガウタズは『精液を注ぐもの』という意味で、創造の神である。この神話は、古事記の国生みの神話とイメージが通じる。イザナギ、イザナミノ命という男女ニ神は、その矛の先から滴り落ちる塩水によって日本を造った。その後、男女の原理で多くの神々が作られ、それがゲルマン諸族の王家となるというのも古事記そのままである」といいます。(1)

渡部氏が言うように、わが国の神話では、イザナギとイザナミの二神によって国土や神々が生み出されました。その神々の一人である天照大神(太陽神)が皇室の祖先と信じられています。それゆえ、皇室と神々とは、連続しています。渡部氏は、古代ゲルマン神話でも、日本と同じく、「神の系図と王の系図の間に切れ目が無い」と指摘します。「ゲルマン人の系図では、古代イギリスのアルフレッド大王家の例でも分かるように、途中から神になってしまう。どの部族にも氏神があり、王はその氏神の子孫だった」と。

ところが、キリスト教では、神がアダムを「土」から作ったと教えます。神と人とは断絶しているのです。そのためキリスト教に改宗したゲルマン民族において、神と人間は断絶してしまいました。こうした人間観は、自然との連続意識、一体感を失わせるものです。そして、自然は人間の帰るべき母体ではなく、対象化し、利用し、支配すべきものとなったのです。

祖先崇拝についての渡部氏の言葉を続けます。「古代ゲルマン人も、古代日本人と同じく、霊魂の不滅を信じた。死んだ先祖がまだ生き続けて、自分を見ているかのように感じる先祖意識があった。死後、自分の父母や祖父母や先祖の霊と再会する。ところが、キリスト教では、親や先祖の霊ではなく、神やキリストに対面することが強調される。しかも、死後自分一人で絶対の力を持つ全能の神と対決する。このキリスト教の原則は、家族中心であったゲルマン人の心を『家』を絶対視しない個人主義へと真底から変えていった。西洋人の個人主義の根源は、まさにこの点にある」。(2)

家族や氏族は血縁集団であり、共通の祖先を祀ることによって、互いの結合を維持します。移動・遠征の多かったゲルマン民族は、もともと氏族に基づく祖先崇拝が弱かったようですが、キリスト教によって偶像崇拝として排斥され、最終的に祖先崇拝が破壊されました。そうなると、社会を構成する原理は、個人の利益の合致による契約か、力による支配かのいずれかになります。契約は利害が反すれば破棄されますし、力による支配は支配される側が力を蓄えたらひっくり返されます。そのため、ゲルマン民族の社会は結合力が弱く、不安定な社会となりました。近代西欧の階級支配や市民革命は、既にここに源を持っているのです。

渡部昇一氏は、次のように書いています。「全く同じような霊魂不滅観を持っていた古代ゲルマン人と日本人が、まるで異質な文明を作り上げた原因は、その国民の大多数がキリスト教的体質を持っているのか、先祖意識的体質を持っているかに、さかのぼって考えなければならない」(3)

ゲルマン民族と異なり、日本人は古来、自然崇拝と祖先崇拝を保ち続けてきました。自然に対する親しみや一体感は、現代人の心から、今なお消えていません。日本人は、祖先と子孫が生命でつながっているように、神と人間は連続し、親しく通い合うものを感じてきました。

また、日本人は、共通の祖霊を祀ることにより、家族・親族の強い結びつきを保ってきました。日本は国全体が血縁関係でつながった一大家族国家のようなものであり、その中心に皇室があるという考え方が、今日まで受け継がれています。そのため、日本人は、人と自然、人と人が、大きな調和・一体感で結ばれているという感覚を持っています。これは日本文明の中核にある精神です。

最初に、日本文明と西欧文明の違いは宗教の違いにあると書きました。自然崇拝と祖先崇拝を否定して進んできた欧米の文明、近代西洋文明は、今日、行き詰まっています。この時、人間と自然、人間と人間の結びつきを大切にしてきた日本文明には、現代世界の問題解決に貢献すべき重要な役目があると言えるでしょう。



(1)(2)(3)渡部昇一著『歴史の読み方』(祥伝社)

参考資料

・渡部昇一著『人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)
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