2012年03月28日

【中国BBS】日本はなぜ大東亜共栄圏について発言しなくなった?

中国大手検索サイト百度の掲示板に「日本はなぜ大東亜共栄圏について発言しなくなったのか?」
というスレッドが立てられた。スレ主のこの疑問に対してさまざまな回答が寄せられている。以下に
日本語に翻訳して紹介する。( )内は編集部による素朴な感想。

● 186201
  なぜなら日本は自分がすでに栄えたからだよ。

● 風大叔
  東アジア共同体と名前が変わったんだ。

● 悲劇の哈梅爾
  なぜなら中国が日本を超えたから。

● zl1685109
  これは中国が先に提唱したことだ。日本はそれを借りたに過ぎない。

● 空中游騎兵
  ということは、EUというのは大東亜共栄圏のパクリ版の疑いが出てくるな。
  (おもしろいことを言いますね)

● 345463464
  アメリカの太平洋艦隊が日本海や南シナ海にいて、ロシアはツァーリボンバーを持っている。
オーストラリアはこの2国についている状態で、東アジア共栄圏なんて無理。ビビッて帰るしかない。

● 五重楼
  鳩山前首相が前に言っていたよ。日本を主導国として中国の経済共同体を排除するというヤツだ。

● 有意思的作者
  米国の提唱する環太平洋戦略的経済連携協定と衝突するからな。
  (TPPのことですね)

● 剣鋒寒光
  いまは脱亜入欧をしているから…。

● 345463464
  ↑脱亜入欧はもうやったよ。でも欧州は遠すぎるから、今は脱亜入米。

● 一公升国道
  なぜなら、わが国が「和諧社会」を提唱しているからさ。その影響力たるや、東アジアの範囲をはるかに超えている!
  (皮肉ですか?)


(編集担当:畠山栄)


サーチナ 2012/03/28
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0328&f=national_0328_067.shtml

元BBS・日本はなぜ大東亜共栄圏について発言しなくなったのか? - 百度
http://tieba.baidu.com/p/1477973295






何故なら特亜の連中が大東亜共栄圏を日本にたかることだと勘違いしてるからだ。




wwww
ワロタ





列強のアジア侵略に対する、大日本帝国の大義名分だったけど

お前等が歴史改変して、日本を悪に仕立て上げたから、辻褄が合わなくなってるだけだろアホ







欧米によるアジア植民地支配の破壊が目的じゃねぇの?そもそも





白人による植民地支配脱却だったが、白人を追い出した代わりに支那が暴れだした




恩を仇で返されまくってんのにやるわけねえだろカス。






特亜と共栄するのは無駄な労力だと悟ったからに他ならないw




無駄だと思い知ったからさ。






福沢諭吉「脱亜論」 1885年3月16日 時事新報

日本の不幸は中国と朝鮮だ。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、
もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、 日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。
地球規模で情報が行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、
過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。
国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
「東アジア共同体」の一員として その繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、大陸や半島との関係を絶ち、 欧米と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。

         _,,,,,,__  __,,,__
        ィjj)))))))))!!!!!彡ヽ,
      /ミ/         ,}彡ヘ
      |ミ{ -‐ ‐ ‐ ‐-  {三=|
      El==; ゚ ''==. |ミミ,|
        `レfォ、,〉 :rfォ.、,  !iル┤
.        { `¨ i ・、¨ ´  `{ゞ'} 支那、朝鮮とは
.        | '`!!^'ヽ     .「´  付き合うなと忠告しておいたのに。。。
        ! ,-ニ'¬-、  ,!|,_   
.        \´?`  / ∧ヘ、
         __/〉`ー ' ´ /  〉 \

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2012年03月24日

【韓国】 報勲処、安重根義士殉国102周年追悼式開催〜韓国侵略の元凶、射殺した崇高な精神讃える

http://www.anewsa.com/news_images/2010/03/26/mark/20100326163743.jpg
今日ボクが見た風景

▲安重根義士逝去100周年を記念して全羅南道咸平郡にたてた安義士銅像.

中国ハルビン駅で韓国侵略の元凶、伊藤博文を狙撃して民族の独立意志を世界万国に知らせた
「安重根義士殉国102周期追悼式」が26日午前10時、南山(ナムサン)にある安重根義士記念
館で安重根義士崇慕会(理事長アン・ウンモ)主監により開かれる。

23日、報勲処によればこの日の追悼式にはチョン・ヤンソン国家報勲処次長・パク・ユチョル光復
会長をはじめとして独立運動関連団体長、光復会員、市民、遺族など300人余りが参加する。
(中略)

安重根義士は黄海道新川で出まれ1905年平安道鎮南浦で三興敦義学校を設立して民族啓蒙運
動を展開した。だが、日帝の強権によって光武皇帝(訳注:高宗のこと)が廃位されて軍隊が解散
するとすぐに海外に出てイ・ボミュン、キム・ドゥソンなどと共に義兵を起こし、1908年義軍長になっ
て義兵部隊を率いて咸鏡北道に進入、国内進攻作戦を主導して対日抗戦を展開した。
(中略)
1909年9月ウラジオストックで日帝侵略の元凶、伊藤博文がハルビンにくるというニュースを聞い
てウ・ドクスンなどと共に偉業の計画を立て、義挙当日9時頃ハルビン駅にて汽車からおりてロシ
ア軍人らの敬礼を受け各国領事らがいる所へ向かって歩いていた伊藤博文を拳銃で狙撃して誅
殺した後「大韓独立万歳」を叫んで現場で逮捕された。

1909年11月ロシア憲兵隊により麗水順天にある日本監獄で移送され尋問と裁判を受ける中でも
日本の不当な侵略行為を責めて是正を要求し、祖国の完全独立と東洋平和の定着を主張するな
ど日本帝国主義に抵抗して1910年2月14日死刑の宣告を受け、同年3月26日殉国したが現
在まで遺骨を探せずにいる。政府は義士の功績を賛えて1962年建国勲章大韓民国を追叙した。

ソース:アジアニュース(韓国語) 報勲処、安重根義士殉国102周期追悼式開催
http://www.anewsa.com/detail.php?number=331460






伊藤博文を命を奪う銃弾のトリガーだけでなく、併合加速のトリガーも引いた張本人なわけだがw





伊藤博文は併合に反対していたと何度言えば…



______________________________________
          ヽ   ./             ,,,,・''''::::::::::::,,,・'''"       / 
偉 .我  :    ヽ  //          ,,....'':::::::::::,,・''''"  .__      ./      深 日 思
大 ら そ     l  lilil        ,,,.''.:::::::::,,・'''"__.-‐‐''' ̄  `     /      さ .本 い
な 大 し     .| l. lllll      /::::::::::/==''''''''''"""""゙゙゙゙゙゙''''''''    .l       を .の 知
歴 .韓 て     l .| lllll    /::::::// ̄                |       :  罪 る
史 .民       .| .|  .llll //.//       (・)     ,/      |         の が
を 族       l、.l /./     ‐‐--、_       _,,.・''-‐''     |
  .の      / `'  /      -、,,,,    ̄ ̄ ̄ ̄         __l           .い
         /    \         `''‐-,,,              `ヽ          .い
        /       `                           ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄




本気で矛盾してるよなぁ
朝鮮併合を蛇蝎の如く憎んでるくせに、それを早めた張本人のテロリストを英雄扱いだもの


その間違い認めちゃうと、他のものも全て崩れちゃうから、
そこだけは意地でも嘘を貫き通すしかないんだろうね





            ⌒  ヾ              、ミ川川川彡
     r/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ、 ヽ             ミ       彡
     /. ノ(  (゚ッ)/  ̄ ̄~ヽ ヾ        三  こ  駄 三
    /  ⌒     ト、.,..    \丶。       三  ら  目 三
   彳、_      |  ∴\    ヽ        三.  え  だ  三
    | ) r‐      /  ノ( \\  |∴     三  る     三
     |           ⌒|⌒ ヽ ヽ  | 。o     三.  ん  ま 三
   ノ(           /    | |  /        三.  だ  だ 三,.
     .⌒      /    ヽ|/゙U       三     笑 三
           /     u            三.     う  三
                              三      な 三
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■







伊藤は併合に反対していた
反対してたからこそ彼は殺されたんだよ

今でいうと「東アジア共同体」に反対してる党首が撃たれて
なし崩し的に共同体が推進されるようなもんだ

つまり、伊藤を殺したのは日韓併合によって利益を得た勢力だ
それは日本にも韓国にもいただろう
安重根は単なる鉄砲玉に過ぎない



つうかさ、伊藤博文は朝鮮人を誰か殺したの?
軍隊を率いて侵略でもした?

いくら憎いからって、いきなり殺しちゃう、
しかも何十年たっても、それをこんな風に持ち上げる、
正気の沙汰じゃありませんよ




もはや南京大虐殺は30万人ったら30万人なんだ!ってレベル
事実もへったくれありゃしない



国の切り盛りを失敗して財政破綻
日露を天秤にかけて上手いこと立ち回ろうとしたけど
ロシアが負けちゃって、日本の保護国として、どん底からやり直すのと
日本に併合されて日本人としてチャンスを掴むの
どっちがマジかを選択したんだよ




合併反対派だったと証拠つきつけても、
どうせ次は、韓国統監府初代統監として朝鮮支配の先鞭を打ったとか言うよ。

帝国主義時代にあれほど優遇的な保護を受け、平和的に合併した事は
世界にも例がが無いって事は、土人には永遠に理解不能。




歴史を直視できないって憐れやな




信心のためなら暴行・ストーカーも許される人たちと、なんか似ている




http://www.youtube.com/watch?v=n2xHQfgBaEY
なぜ朝鮮人は嘘をつくのか。




posted by xxx at 14:26 | TrackBack(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月15日

朝鮮人神風は親日派か?〜自殺攻撃に追いこまれた青年は出撃前、アリランを歌って涙した

http://image.kukinews.com/online_image/2012/0314/120314_20_1.jpg

歴史スペシャル‘朝鮮人神風タク・キョンヒョンのアリラン’(KBS1・15日夜10時)。太平洋戦争で守
勢に追い込まれた日本は自殺攻撃という打開策を出す。爆弾が装着された飛行機を飛ばせて敵
艦に飛び込む死をかけた作戦だった。4000人に達する若い軍人がこの無謀な作戦に投入されて
命を失った。その中には10人余りの朝鮮人が含まれたことが確認された。

卓庚鉉(タク・キョンヒョン)はそのうちの1人で、2001年封切られた日本映画‘ホタル’の実際の主
人公だ。映画でタク・キョンヒョンは戦争が終盤に近づいた1945年5月出撃命令を受ける。出撃前
日には普段、頻繁に訪れた食堂に立ち寄って‘アリラン’を歌うと涙があふれる。映画は戦後を懐
かしむ日本人の感性を刺激して興行的に成功した。

タク・キョンヒョンは5月11日戦闘機に爆弾をのせて米軍艦隊に突進する。だが、作戦は失敗して
結局沖縄海上で命を終える。彼の年齢二十四だった。その後、靖国神社に合祀されて今でも日本
の軍神としてあがめられている。

2007年5月慶南(キョンナム)泗川(サチョン)で追悼碑一つをめぐり激烈な戦いがあった。日本の
ある女優(訳注:黒田福美)がタク・キョンヒョンの慰霊碑建設を推進したのだ。市民らの反発は強
かった。天皇のために自ら命を投げた神風朝鮮人を賛えることは認されなかった。結局、追悼碑
建設計画は失敗に終わった。

出撃前日、アリランを歌った朝鮮人神風タク・キョンヒョン。彼をはじめとする朝鮮人特攻隊は果た
して親日派だったのだろうか?

キム・ヘリム選任記者

ソース:(韓国語) 朝鮮人神風は親日派だったのだろうか?…自殺攻撃に追い出されたタク・キョ
ンヒョン、出撃前アリラン歌って涙
http://news.kukinews.com/article/view.asp?page=1&gCode=all&arcid=0005916145&code=13180000

関連スレ:【日韓】 「カミカゼ」に志願した戦死者の慰霊碑、韓国に建てるなんて〜泗川市議員ら
反発、10日に除幕式[05/05]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1209999287/
【日韓】 泗川市長「10日の韓国人神風特攻隊慰霊碑除幕式、中止する。石碑の撤去も」★2
[05/09]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1210350545/
【日韓】 韓国人神風特攻隊員の慰霊碑、再建立の動き〜保管中の寺の僧侶「韓国人が反発する
のは当たり前」[10/09]
http://mimizun.com/log/2ch/news4plus/1223647315/

特攻隊ってのはいわゆる覚醒剤で精神的におかしくなってた部分がある


覚醒剤はないよ

貴重な飛行機に薬で幻覚や錯乱起こすようなの乗せると思うか?


覚醒剤 あの当時はヒロポンと呼ばれていた物は
疲労を取り 意識を覚醒し集中力をアップさせ
恐怖心を取り除く効果の目的があった
決して幻覚や酩酊するような類の薬ではないよ



副作用:興奮、情動不安、眩暈、不眠、多幸症、振戦、頭痛

眩暈とか情緒不安とか不味いだろ、気圧変化で地上より回るだろうし






親日もなにも、当時は”日本人”ですから

逆に日本人を名乗って中国でさんざん悪さしたことは記事にしないの?







当時は日本で日本人だろ
親日派とか頭おかしいを通り越して哀れだわ



親日派とかじゃなくて、ただ当時日本の一部であった祖国の為にいっただけじゃないのか?



当時は日本を守る=朝鮮を守るだったのに、親日派だの云々言われるなんてこの朝鮮人も哀れだねえ
命を散らしてまで守ろうとした祖国は、戦後すぐ自民族同士で殺し合うし、今日は新たな属国への第一歩だし

可哀相に




特攻隊って志願だったはずよね?
文見てるとまるで強制的に特攻隊に組み込まれて
なくなく出撃して死んでいったような感じと受け取れそうだが・・



結局、反日で思考停止してるから何を言っても無駄だな。



そもそも、「自殺攻撃」などと、当時おかれていた大日本帝国 (含む、朝鮮地方・台湾地方他) の
捨て身の作戦、立案した人間までが「外道の作戦」とまで呼んだこの作戦に、わずか10人余りが参加
しただけだろう ? お前らの中で、朝鮮地方を含む大日本帝国を守るために特攻した人間は10人ちょっと。
これ、人口比から見てどう思う ? 如何に当時の賤人が恵まれてたか ? ということの証左ではないか !!!
まぁ、前頭葉未発達の下等動物に行ったところで理解できないだろうが………。

日本がしたことはすべて悪意ある表現に貶めないと語れない、劣等民族。




大戦を日本人と戦ってたなどと捏造してる馬鹿鮮人が歴史を語る資格なし




かつては立派な朝鮮人もいたということ。

日本人はそれを知ってるけど、あいつらは知りもしない。



志願して特攻隊に加わった方だったと記憶。
天皇陛下や日本人のために戦ってくれたなら日本人としてはありがたいが、そうじゃないだろう。
ふるさとや家族、朝鮮人を守るために戦ったと考える方が自然だし、当時はそれで十分日本にもありがたかった。
なのに、朝鮮のために戦ったのに、日本に益したら、即、親日・反民族行為と見做されるんではあんまりだ。
特攻青年にしても金玉均のような政治家にしても、朝鮮のために働いても親日派の一言で切って捨てられる韓国は狂ってる。
どうせ日本人が何を言っても聞く耳を持たないんだろうが、人として踏み越えてはならない一線を、韓国は越えつつあるよ。




朝鮮人に特攻隊員いたの?
奇特だねえ。
二級国民だった朝鮮人なんか信用できないから、
そういう任務は任されないと思うんだが。



日本国民としてあなたに抗議する。
たとえ彼が日本でなく故郷のために散ったとしても、英霊に違いはない。



日本人よりも日本人たろうとしてその命を日本の国に捧げたんだ。
出自が朝鮮人だろうと、本人は日本人のつもりだたろう。
WW2の日系部隊もアメリカ人として戦ったのと同じ事だ。

アリランが歌えるって日帝は何処まで良い国なんだ。




朝鮮人でも日本という国は命をかけて愛せるだけの良い国だったってことでもある。




79 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2012/03/15(木) 01:12:28.73 ID:5NiNHca8
日本が強制的に韓国人を連行して特攻隊に任命したんだろ
弱みを握り、証拠を握りつぶすのは日本の得意技
独裁者日王の悪行と、それに感化された日本人は残虐極まりない

早く戦争被害者に謝罪汁




強制で出来る仕事じゃないくらい無い頭でもわかるだろ

腰抜に、この朝鮮人を語る資格はない



90 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2012/03/15(木) 01:24:59.15 ID:5NiNHca8

韓国にとって都合の良い情報は隠し、そうでない情報は捏造されている
強制した事実を隠そうとしても、証言者がいる限り無駄な抵抗だ


おまえ大丈夫か?
これ登場人物も含めて全部朝鮮発信の記事だぞw



年度 志願者 入所者数 選抜率 志願倍率
1938年 2946人 406人 16.2% 7.3倍
1939年 12,348人 613人 4.9% 20.2倍
1940年 84,443人 3,060人 3.6% 27.6倍
1941年 144,743人 3,208人 2.2% 45.1倍
1942年 254,273人 4,077人 1.6% 62.4倍
1943年 303,394人 6,000人 1.9% 50.6倍


強制しておいて、なぜ選抜するの?w


志願者の多さに兵役担当者が、頭を抱えたくらいだし、
選抜から落とされたものの中には、抗議の自殺をしたものもいるw
当時の価値観では、徴兵されないことは差別だったのだよ。



本当に馬鹿チョンだな。
日本帝国軍人、その矜持たるや、今の鮮人には思い及びもしないだろう。
その栄光はWW2の恥辱に塗れる前までは、皇軍として気高く誇り高いものだったんだぞ。

ヒトラーも愛する者のためでなければ人は命を捨てないものだって言っているだろう。
キリストが言う、その命までも与えようとして愛する、そのことが出来た国だったんだ。
売春婦の嘘つき婆さんが天使にされ国会議員に祭り上げられる朝鮮人には信じられないだろうがな。


己が無知を呪うが良い




朝鮮人は無理やりな解釈や数の誇張にうその添加と、
前提からして日本人とかみ合わないから、
話をしようとするのは無駄だよ





で?次の謝罪と賠償ネタはこれですか?




謝罪と賠償がくるぞおおおお
逃げろおーーーーー!



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2012年03月10日

宣戦布告をせずに「フライング・タイガー」と名付けられた正規空軍派遣 ルーズベルト

ルーズベルトが、日本叩きの傀儡として利用したのが中国の蒋介石軍である。

中国大陸に歩を進めた日本は、蒋介石政権を相手に日支事変に突入、

戦線が拡大し、泥沼の戦いを続けていた。




今日ボクが見た風景


これが欧米の権益との糾弾の種となり、


アメリカはあからさまに蒋介石軍の支援を始め、

「フライング・タイガー」と名付けられた正規空軍を派遣する。
 


今日ボクが見た風景


この時点で、ルーズベルトは既に重大な国際犯罪を犯している。

なぜなら、義勇軍という名を借りて、事実上、参戦をしているからである。

宣戦布告をせずに、戦いをしかけることは、国際法では認められていない。
 

蒋介石軍を支援した裏には、アメリカの深謀遠慮がある。

蒋介石政権と日本が泥沼の戦いを繰り広げ、共倒れになれば、

これはアメリカにとっては非常に都合が良い。

中国と日本の両国が疲弊すればするほど、

中国での利権獲得が容易になるからである。



前野徹氏著 「第四の国難」より

posted by xxx at 15:16 | TrackBack(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月04日

日本人の「南京大虐殺」に対する認識(1) 東京審判での日本側弁護士は歴史の真相を分かっていた

東京裁判で、日本側弁護士は歴史の真相をよく分かっていた

南京大虐殺発生当時、日本陸軍の残忍さはすでに世界中の知るところとなっていたが、大多数の
日本人は、1945年の「東京裁判」で初めてその事実を知った。通称「東京裁判」とは極東国際軍事
裁判のことで、1946年5月3日に開廷され、その2年後、東条英機以下25名の被告全員が有罪判決
を受け、そのうち7名が絞首刑となった。

http://images.china.cn/attachement/jpg/site1004/20120304/001ec94a25c510bd0b6605.jpg
資料写真:東京裁判

当時、日本の新聞は全部で4面しかなく、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指示により、ほぼ
毎日その半分が東京裁判の報道に当てられていた。大多数の日本人は、その裁判を通して天皇制
の下に築かれた軍人集団を中心とし、財閥、官僚、メディア、そして右翼が一緒になって動かして
きた戦争の一部始終を知ることとなった。

東京裁判で最も注目が集まったのが南京大虐殺だった。事件発生後間もなく中国政府が公表した
情報は、日本の第六師団が23万人、十六師団が14万人、その他の日本軍部隊が6万人、合計43
万人の中国人を殺害したというものだった。中国政府は東京裁判までこれを主張し続けた。

東京裁判では、一般人の傍聴が許可されていた。毎週の傍聴者数は、日本人1500名と同盟国の
人々が450名ほどだったが、法廷で南京大虐殺の審議が始まると、日本人の傍聴者数は2000人
以上に増えた。ここからもその関心度の大きさが伺える。

日本人の立場から言えば、やはり検察側の起訴内容を覆すことが期待されたが、実際には多くの
日本人を失望させる結果となった。被告の松井石根大将も弁護士の伊藤清氏も、弁護と呼べる
弁護は、ほとんどできなかったからだ。

http://images.china.cn/attachement/jpg/site1004/20120304/001ec94a25c510bd0bad07.jpg
資料写真:東京裁判

http://images.china.cn/attachement/jpg/site1004/20120304/001ec94a25c510bd0bad06.jpg
資料写真:東条英機

弁護側が提出した物証は、当時の「国際安全地区委員会」から日本軍に宛てた、難民地区に対し
砲撃しなかったことに対する感謝状、そして難民地区に食料を運んでくれた日本兵に対する個人的
な贈り物だった。だが、これらの物証は、検察側の大量の証人と証言の前では、あまりにも無力
なものだった。

弁護側が積極的に弁護を行わなかったのは、弁護士の中に歴史の真相をよく知っていた者がいた
からである。島田繁太郎の弁護士を担当した瀧川政次郎氏は、当時北京で南京大虐殺について
耳にし、1938年南京を訪れた際、人力車に乗って市内を回った。発生からすでに半年が経って
いたものの、南京市内にはまだ民家の焼け跡が散在し、車夫によれば、それらはみな日本軍に
焼かれたもので、更には、南京市の女性たちもそのほとんどが性的暴行を受けたということだった。

そのため弁護士達は、日本軍の暴行に対する弁護を諦め、代わりに当時の方面軍最高指揮官
だった松井石根大将が部下の行為に対し責任を負うべきかどうか、そしてそれはどの程度の責任
かという点に焦点を絞る方法をとった。

結果、松井石根は東京軍事法廷で死刑の判決を受けた。


チャイナネット 2012/03/04
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2012-03/04/content_24797467.htm




>合計43万人の中国人を殺害したというものだった

また増えたのか?
しかも、歴史を遡って…




それまでなーんにもなかったのに
東京裁判でいきなり出てきた案件でしたね



有罪を実証するには検察側が証拠を提出する必要がある。
しかし、東京裁判では有効な証人すら出せなかった。
何十万人も虐殺して何故証人もいないのか?


南京大虐殺(事件)はあったんだよ。蒋介石 国民党軍がやった。
自国の兵隊の足を縛り付けて逃げたんだからな。
だから日本側が大虐殺がなかったというと辻褄があわなくなる。



これって米軍の原爆は、虐殺じゃないって言い張った奴らでしょ
元々戦勝国の断罪裁判だったじゃん
実際国内じゃ報道規制かかった公開されてない所ばかりだし
茶番だろ


アメリカも、原爆落としたっていう非人道的な罪の負い目から、
それを正当づけるためにも超罪悪な日本に仕立てなければならなかったんだよな



世界史上でも類をみない勝者による勝者のための裁判を引き合いに出すか。
これはにんともかんとも。



アウシュビッツ大虐殺も大嘘だし、
敗戦国は言われ放題



21 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2012/03/04(日) 20:00:18.43 ID:008fRRYo

今さら南京大虐殺の否定や無実が確定する事で日中双方合わせても得するのって
ネトウヨだけですよね?

中国人はおろか大半の日本人一般にとってもメリット無い。


なにいってんの?嘘で騙したんだから謝罪と賠償しろよカス。
好きだろ?

南京大虐殺という嘘を宣伝されることで不利益を被るのは日本国自体じゃん

なんの不利益か具体的に知りたいって前スレで言ってたけど、
悪意を持って日本国を貶める嘘を吐かれているのに、否定しない理由がないな


いまどきネトウヨって連呼するの、

朝日新聞編集局校正部か、朝鮮総連だけですよね。
それが一体化しててもおかしくないけど。

“ネトウヨニート、クビ吊って氏ねよ”事件で、朝日新聞が2ちゃんねるから
隔離されたら、2ch全体から、キチガイじみた罵倒全般が文字通り消滅しちゃいましたから。


てかID:008fRRYoは、前スレ埋まるのを待ってたのか?w


569 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2012/03/04(日) 18:06:23.76 ID:008fRRYo

30万人は中国側の誇張かもしれんが、
日本軍による理不尽な虐殺、暴行、略奪の類の行為は有ったと思う。
日本軍ならやりかねない。
それほど、旧日本軍には信用が無い。

日本軍を信じてあげたいのはヤマヤマだけど、自信を持って

「日本軍にかぎってそんな事は無い」
「日本軍は絶対虐殺などしない」
「日本軍は品行方正」
「日本軍は人命尊重」

と堂々と言えないところが残念だ。




旧帝国日本軍の怖さは地雷原があったら横一列になって自軍兵隊を犠牲にしながら前進し、

トーチカには爆弾体に巻きつけ飛び込んでくる、己れの命をかえりみない戦法に恐怖したんだよ



47 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2012/03/04(日) 20:12:44.05 ID:agvpOQW8
虐殺国家「倭」
だっせええええええええええ
japanese Invasionで検索

そして日王は世界に向けて謝罪して王室制度を今すぐ廃止するべき
なんといっても数多くのアジア人の命を奪った戦争の責任者の息子なんだから



日王、王室制度、ってなあに?

まずはベトナムに謝罪しようかチョン
朝鮮進駐軍による日本人虐殺への謝罪はその後で聞いてやる





49 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2012/03/04(日) 20:12:49.98 ID:F2ROdakU
何だよ、裁判で判決が出てるのかよ
それじゃあ、悔しいけど認めざるを得ないわ




東京裁判を裁判と言う奴はいないだろ
吊るし上げって言うんだよ



59 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2012/03/04(日) 20:16:52.95 ID:uzSrju3C
民間人はわからないが
捕虜を斬殺してたのは確か




それはお互い様だし




67 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2012/03/04(日) 20:20:56.74 ID:VqBapycJ
裁判で判決出たのか。じゃあ仕方ないな。
もう結果出たし今更蒸し返してもしょうがないな



あんな裁判擬きが証拠にならないのは自明。
東京裁判教の信者かよ。




東京裁判とは何ぞな、グフゥwwwww



1945年に捏造したことをばらしてどうする、シナ人(爆笑)




関連記事


日本の戦争に関連してよく誤解されていることの簡単なまとめ  



パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義 工作員が絶賛する本  


間違った歴史は正しく直さなければならない  



極東軍事裁判-パール判事の判決-



「ハルノート」  


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2012年03月02日

ホロコースト発生の事実なし 20世紀のタブー上位のネタ

★米共和党下院議員、「ホロコースト発生の事実なし」

 アメリカのウォルター・ジョーンズ共和党下院議員が、「第2次世界大戦で、
ナチス・ドイツにより数百万人のユダヤ人や、その他の人物らが殺されたと主張する、
いわゆるホロコーストが発生した事実は存在しない」と語りました。
プレスTVの報道によりますと、ジョーンズ議員は29日水曜、
アメリカの新聞ハフィングトン・ポストとのインタビューにおいて、
「ホロコーストは発生しておらず、このような出来事は
20世紀最大の真っ赤な嘘と見なされる」と述べています。

 また、「第2次世界大戦末期に、ナチス・ドイツにより数百万人ものユダヤ人らが
大量殺戮されたというのは、でっちあげの虚言であり、ユダヤ人らの空想に過ぎない」としました。
さらに、「このようなことは、歴史に残る虚言であり、ユダヤ人らはこの虚偽の物語を
創作するために数百万ドルを費やして、この事柄に関する書籍を執筆し、映画を制作した」と語っています。

 ベトナム戦争の退役軍人であるジョーンズ議員はまた、
アメリカの現状と第1次世界大戦後のドイツとを比較し、
「アメリカは、経済、政治、文化、そして軍事面で支離滅裂の状態にある」と述べました。
そして、「サントラム元上院議員やギングリッチ議員のような好戦主義者、
そしてロムニー議員のようなイランへの敵対姿勢を示す者の発言は、滑稽で笑止の沙汰である」としています。

イランラジオ http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&view=article&id=26038:2012-03-01-11-48-15&catid=17:2010-09-21-04-36-53&Itemid=116
前スレ http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1330651284/

▽過去スレ
【Holocaust】 アウシュビッツ強制収容所の象徴 「Arbeit macht Frei (働けば自由になる)」と書かれた入場門の表示板盗難 
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1261184786/
【大量虐殺】 ユダヤ人やロマ民族、障害者ら“ホロコースト犠牲者”8万人をしのぶ追悼集会 ナチス・ドイツによるオーストリア併合70年
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1205390101/


やっぱりね。そうだと思ったよ。


ついに風穴を開けたな。
20世紀のタブー上位のネタ




ヒットラーはユダヤ人でありフランスのロスチャイルド商工会から支援を受け、
フランスのロスチャイルド商工会が作ったイスラエルに入植しないユダヤ人を
ヒットラーに拘束させた。

ヒットラーはユダヤ人を虐殺していない。
収容所ではチフスが流行り多くのユダヤ人が死んだが、ナチスは彼らを治療
している。   (ソース Walter C Langer of Reports, Gary Allen, Leuchter…..etc

ガス室の壁の成分・構造などの研究で多くの科学者が虐殺を否定したが、ユダ
ヤはそれらの科学者を刑務所に 送った。

その後ユダヤ人虐殺を否定すれば罪になる法律が制定される。
ソース 裁判所の記録、Leuchter…..etc )


アンネ・フランクもチフスの治療を受けているんだよな




有名なアンネの日記は、

大戦後に発明されたボールペンとこれまた大戦後に発売されたポートレートに書かれた代物です。
アンネフランクはタイムトラベラーだよね。





ユダヤ教のシンボルであるダビデの星
http://pds.exblog.jp/pds/1/201006/12/87/f0186787_21571581.jpg
イスラエル国旗
http://www.enuesu.co.jp/shop/item/enuesu/picture/goods/442_1.jpg
イルミナティのシンボル
http://blog-imgs-45.fc2.com/o/1/x/o1xmlan/piramid4_20071016072254.jpg

アメリカ、ホワイトハウスのあるワシントンDC
http://www.jesus-is-savior.com/False%20Religions/Illuminati/occult-washingtondc_02.jpg
http://www.jesus-is-savior.com/False%20Religions/Illuminati/occult-washingtondc_03.jpg
http://www.jesus-is-savior.com/False%20Religions/Illuminati/occult-washingtondc_04.jpg
http://www.jesus-is-savior.com/False%20Religions/Illuminati/occult-washingtondc_09.jpg
http://www.jesus-is-savior.com/False%20Religions/Illuminati/occult-washingtondc_10.jpg
http://www.jesus-is-savior.com/False%20Religions/Illuminati/occult-washingtondc_11.jpg

アメリカとはいったい誰が誰のために作った国なのか?





名前違うし議員じゃないし。

Art Jones, Illinois Republican Congressional Candidate, Says Holocaust Never Happened
http://www.huffingtonpost.com/2012/02/29/art-jones-congressional-candidate-denies-holocaust_n_1310113.html?ref=chicago&ir=Chicago

【イランジャパニーズラジオ】

ジョーンズ米下院議員が「ホロコーストが発生した事実は存在しない」と新聞に述べたと報道★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1330658499/




ユダヤ人を白ロシアに移住させようとして失敗したんだろ。
ドイツがソビエトに勝ってたらユダヤ人国家がスラブとアングロサクソンの壁になってたかもね。




ようつべが出来てから検証動画とかうpし易くなったからな

検証番組見てくれで済むからな〜 凄い時代になったよな



流石に数百万はないよな、常識的に。
でも、数百万殺してない証拠だせよと言われて、出せるもんでもないし、言われ損だな。

その点、南京は都市の人口に関する証拠やスマイスの被害調査など沢山証拠が残っているから反証は楽だ。
それでも、30万だと言われ続けてるけど。





となると、山のように積まれたメガネ、大量の靴、人革(刺青あり)製のブックカバー
ランプシェードなど、実録フィルムを見たような気がするけど、あれは夢だったの?




南京玉簾はまともな証拠がないけどホロコーストはこういう死体の山画像が幾らでもあるけどどうよ?
http://iup.2ch-library.com/i/i0577926-1330661826.jpg

うわわ









虐殺は眉唾だが、民間人を一箇所に集めて大量餓死させたんだから責は負うべきだけどな



え?餓死?



大戦末期はドイツ軍人すら餓死してた状況じゃん。
チフス+栄養失調で結構餓死してる


国際的なユダヤ人協会かな?の統計で、戦前と戦後で殆ど人口が変わっていないんだが?
それこそ数百万人も殺されたら、統計で必ずでてるはず。
そもそも、その大量殺人技術ってのが疑問だし、劣勢・敗戦中のドイツが、ユダヤ人殺戮に
資源を振り分ける余裕なんか全くない状況だったからな。


統計は無理じゃないか? 追放されて世界各地に逃げていったユダヤ人の数など把握できてる分けないし。

どうせ言うなら、「ガス室での大量虐殺など無い」とか検証できること言わないとな。
数百万の犠牲者なんて検証できない。常識的にそんな大量虐殺あり得ないと思うけど、
水掛け論になって一方的に数の圧力で押し切られるだけ。


>http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=13842&Itemid=56

ユダヤ人協会、って書いてあるだろ? 以前から各地にあるらしい。
そして、ユダヤ人とカウントされる人達の統計があって、
戦前560万人→戦後550万人くらい、ホロコーストがあったとは思えない数字がでてたと思うわ。


そうか、ドイツから生きて何人逃げ出したとか関係なく、
数百万レベルになると世界のユダヤ人の総人口の増減で比較しても検証できるんだな。





しかし、一人の虐殺と、数百万人の虐殺の違いはなんであろう?



英雄かそうでないか。それは勝者か敗者かで変わる





「戦場のピアニスト」は嘘だらけってことか

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2012年02月29日

フーバー大統領の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)

中央大学客員教授 稲村公望

 昨年十二月、日米開戦から七十周年を迎えた。その直前に一冊の回想録が刊行された。

ジョージ・ナッシュ氏が編集したフーバー大統領の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』だ。

ここには、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。

千頁近くにも及ぶこの大著をいち早く読破し、その重要性を指摘している稲村公望氏に聞いた。



今日ボクが見た風景

ルーズベルトが日本を戦争に引きずり込んだ



―― 『Freedom Betrayed』のどこに注目すべきか。


稲村 フーバー大統領死去から実に四十七年の歳月を経て刊行された同書は、フランクリン・ルーズベルト大統領を厳しく批判しており、同書の刊行はいわゆる「東京裁判史観」清算のきっかけになるほど重大な意味を持つ。例えば、フーバーは回想録の中で、次のように書いている。
 「私は、ダグラス・マッカーサー大将と、(一九四六年)五月四日の夕方に三時間、五日の夕方に一時間、そして、六日の朝に一時間、サシで話した。(中略)
 私が、日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意して、また、一九四一年七月の金融制裁は、挑発的であったばかりではなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込んだ。制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為を実行するものであり、いかなる国と雖も、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかったと述べた」

 これまでも、チャールス・A・ビアード博士らが日米戦争の責任はルーズベルトにあると主張してきた。対日石油禁輸について、ルーズベルト大統領から意見を求められたスターク海軍作戦部長が「禁輸は日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する攻撃を誘発し、直ちにアメリカを戦争に巻き込む結果になるだろう」と述べていた事実も明らかにされていた。しかし、ビアードらの主張は「修正主義」として、アメリカの歴史学界では無視されてきた。つまり、ルーズベルトの責任がフーバーの口から語られたことに、重大な意味があるのだ。
 『フーバー回想録』には、対日経済制裁について次のように明確に書かれている。
 「…ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、一九四一年七月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた」



天皇陛下の和平提案を退けたルーズベルト



―― まさに、ビアードらの主張を裏付けるものだ。ルーズベルトは日本を無理やり戦争に引きずり込もうとした。彼は真珠湾攻撃前から日本本土爆撃を計画していたともいう。


稲村 アラン・アームストロングは、『「幻」の日本爆撃計画―「真珠湾」に隠された真実』の中で、真珠湾攻撃の五カ月前にルーズベルトが日本爆撃計画を承認していたことを明らかにした。その計画は「JB─355」と呼ばれるもので、大量の爆撃機とパイロットを中国に送って、中国から日本本土を爆撃しようという計画だった。
 『フーバー回想録』は、「スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして真珠湾で負けたのだ」と書き、ルーズベルトが近衛総理の和平提案受け入れを拒否したことについては、次のように批判している。
 「近衛が提案した条件は、満州の返還を除く全てのアメリカの目的を達成するものであった。しかも、満州の返還ですら、交渉して議論する余地を残していた。皮肉に考える人は、ルーズベルトは、この重要ではない問題をきっかけにして自分の側でもっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシアに与えようとしたのではないかと考えることになるだろう」
 徳富蘇峰は、「日本が七重の膝を八重に折って、提携を迫るも、昨年(昭和十六年)八月近衛首相が直接協商の為に洋上にて出会せんことを促しても、まじめに返事さへ呉れない程であった。而して米国、英国・蒋介石・蘭印など、いわゆるABCDの包囲陣を作って蜘蛛が網を張って蝶を絞殺するが如き態度を執った。而して、彼等の頑迷不霊の結果、遂に我をして已むに已まれずして立つに至らしめたのだ」(『東京日日新聞』一九四二年三月八日付)と書いていたが、七十年という歳月を経て、ようやく『フーバー回想録』によって、蘇峰の主張が裏付けられたのだ。
 フーバーは、さらに重大な事実を記録している。
 天皇陛下は、一九四一年十一月に駐日米国大使を通じて、「三カ月間のスタンドスティル(冷却期間)をおく」との提案をされたが、ルーズベルトはこの提案をも拒否したと書いている。アメリカの軍事担当も、冷却期間の提案を受け入れるべきであるとルーズベルト大統領に促していたのだ。
 フーバーは、「日本は、ロシアが同盟関係にあったヒトラーを打倒する可能性を警戒していたのである。九十日の冷却期間があって、(戦端開始の)遅れがあれば、日本から全ての糊の部分≠取り去ることになり、太平洋で戦争する必要をなくしたに違いない」とも書いている。
 当時、アメリカでは戦争への介入に反対する孤立主義的な世論が強かった。ルーズベルトは欧州戦線に参戦するために、日本を挑発し戦争に引きずり込んだのである。日本国内にも日本を日米開戦に向かわせようとする工作員が入りこんでいた。実際、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動を行い、そのグループには近衛のブレーンだった尾崎秀実もいた。
―― ルーズベルト自身、反日的思想を持っていたとも言われる。


稲村 彼は日系人の強制収容を行い、「日本人の頭蓋骨は白人に比べ二千年遅れている」と周囲に語るなど、日本人への人種差別的な嫌悪感を強く持っていたとも指摘されている。

http://gekkan-nippon.com/?p=2969






posted by xxx at 23:01 | TrackBack(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中国の軍オタ 真実にたどり着いちゃった テヘペロ

こーゆー意見もある

KEUMAYA:
俺の知り合いの南京出身の中国人は、

ミリオタこじらせた挙句、日本軍の装備に精通し
「当時の日本軍の装備では30万人を殺すのは不可能」と

独自に結論を出してた。


今日ボクが見た風景

[http://twitter.com/KEUMAYA/status/172873227964661760]





744日出づる処の名無し:2012/02/24(金) 23:37:27.96 ID:xbdqhp4o

南京にはEDAJIMAがいて素手で30万人殺したんだよ__


746:日出づる処の名無し:2012/02/24(金) 23:38:36.55 ID:kbY9Aayo

>>744
範馬勇一郎じゃないか?


749:早○田の食客 ◆3zWaseda2A :2012/02/24(金) 23:39:35.03 ID:+jpMiuoK

>>744
むしろ範馬家一族が総出で・・・。


761日出づる処の名無し:2012/02/24(金) 23:44:51.85 ID:PUJ/+DbP

死体の処理作業や隠蔽工作も抜かりないとはEDAJIMA恐るべし_______


769:日出づる処の名無し:2012/02/24(金) 23:46:35.62 ID:YAupUK53

>>761
胃袋の中に隠したんですよ___


774:日出づる処の名無し:2012/02/24(金) 23:48:40.53 ID:zJv6JwwZ

>>761
シナ人はやられると消滅するんでない?
特撮の戦闘員みたいに。


799: 忍法帖【Lv=23,xxxPT】 :2012/02/25(土) 00:01:47.97 ID:D4M2rmFc

小奴、親日罪で逮捕されるな(ある意味_無しで


755日出づる処の名無し:2012/02/24(金) 23:41:11.46 ID:kbY9Aayo

というか、戦争で一方的にやられたら事件だっつーならイラク戦争も「事件」だと思うの。
割とマジで言うけど、自分らがロバにも劣る弱兵かつ市民も守れない腰抜けぞろいって宣伝して楽しいのだろうか。



759:日出づる処の名無し:2012/02/24(金) 23:44:12.18 ID:YAupUK53

>>755
それで相手がひるんでくれるならいいんじゃない?
それにあちらさんとしては最終的には勝ってるんだからイラクとはずいぶん状況が違う
実際はただの外交カード
でも内政でも使ってるか・・・
ちなみにウリは南京大虐殺で学んだ世代だったりする
たぶんギリギリだけど


764日出づる処の名無し:2012/02/24(金) 23:45:24.56 ID:NoV4uT6T

>>755
>自分らがロバにも劣る弱兵かつ市民も守れない腰抜けぞろいって宣伝して楽しいのだろうか
米留学してた中国人学生が、「日本軍による南京大虐殺」をアメリカ人相手に悲憤慷慨して
説明してたら、

(何度も聴かされてウンザリしてた米国人が)
「で、その虐殺って何ヶ月も続いたんでそ?その間、中国軍は何してたの?」
と訊き返され呆然自失(考えたこと無かった)。

一生懸命調べた結論は
「あの頃は売国奴だらけだったんだorz」


772:日出づる処の名無し:2012/02/24(金) 23:47:56.62 ID:kbY9Aayo

>>764
なんなんだよ彼らは。


782:日出づる処の名無し:2012/02/24(金) 23:55:13.83 ID:EFbBp11u

>>764

実際問題、ホントに江沢民教育受けた中国人に聞いてみたいんだよね、

「あそこで日本軍に虐殺食らった」「ここでも(以下ry」って散々書いてある教科書の結論が

「日本をぶっ倒しますた」って書いてあるの、素直に納得できるの?ってw







posted by xxx at 04:13 | TrackBack(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月27日

日本は宣戦布告せずに真珠湾を攻撃しました

1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:32:32.00 ID:hQ3DPCC30

卑怯な民族ですね


4:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:33:45.22 ID:t9SsiGfB0

現代戦で宣戦布告とかちゃんとされる方が稀だし


15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:37:35.66 ID:/Qh6gq/40

>>4
日本が間違ってた側
だとすぐ正当化するんだな


17:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:38:22.86 ID:7ST1TCUi0

>>15
別にどの国もちゃんと宣戦布告してから攻撃なんてしてないよ
攻撃と同時に布告する 大して変わらんだろ


57:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:56:15.19 ID:/Qh6gq/40

>>17
みんなしてるから日本はしなくてもいいってことにはならないでしょう?

7:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:34:34.42 ID:U/jcWKxC0

そのせいで日本嫌いなアメリカ人も多いからな


10:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:36:06.00 ID:Em5MQgYn0

あの当時の日本軍の基本戦術は先制攻撃だからな
奇襲?だからどうしたって感じ


18:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:38:40.16 ID:FD/v0j170

外務省の不手際うんたらかんたらってのは?


25:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:40:45.42 ID:HZhY0L5l0

>>18
というかそもそも米は日本の奇襲があることわかってたけど反日感情煽るためにダンマリしてた


35:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:43:31.06 ID:7ST1TCUi0

>>18
外務省じゃなくて大使館職員な
酒が抜けなくて寝てたんだよ

でも無線傍受して攻撃があることはわかってた
反日感情煽って開戦を正当化支持率のために黙っていたのも事実


19:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:38:43.36 ID:76Z16qEp0

むしろ批判されるべきなのは日中戦争の開戦だろ
真珠湾攻撃は擁護する意見も多いし


23:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:40:34.40 ID:8l3W/pFq0

真珠湾攻撃の数時間前に公海で日本軍の潜水艦が米軍に撃沈されたんじゃなかったっけ?
つまり、アメリカの方が先に宣戦布告なしに攻撃した


28:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:41:36.99 ID:a+HhMxF80

アメリカ政府は日本が真珠湾を攻撃すること知ってたんじゃなかったっけ?
でも現地民を避難させなかったんだろ?日本を悪者にするために

どっちが卑劣なんだろうね?


31:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:42:55.84 ID:/mhreUjQ0

>>1
それ以前にアメリカが経済封鎖したんだが・・・

経済封鎖は戦争行為になる


32:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:43:09.83 ID:N9iXG5jKP

むしろ戦争したくて、戦争煽っていたのはアメリカ

背景しらずに批判は馬鹿丸出


33:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:43:11.54 ID:GVJADtbW0

アメリカのいう事が全て正しいと思ってるんだろうな
まさに思考停止の状態


36:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:43:34.54 ID:Em5MQgYn0

アメリカ軍は事前に攻撃を知ってたけど日本の航空戦力なんてたいしたことはないから
被害もそんなにないだろうって放置してたら大惨事になって焦った


39:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:45:35.38 ID:zSG6swUa0

>>36
大艦巨砲主義の幕を引いて、航空戦力の運用こそ新機軸と開眼させたらしいしな。
それだけ画期的な戦術だった。


40:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:46:10.42 ID:HZhY0L5l0

宣戦布告云々より戦争で手薄になった欧州の植民地をどさくさに紛れて強奪してった日本軍のセコさの方が問題
こんなことしたら誰だって怒るw


47:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:50:50.37 ID:76Z16qEp0

>>40
歴史の背景知らずにいろいろ語るなよ危険だぞ

経済制裁への対抗として支持した上層部はともかく、
現地の軍人は本当に帝国主義からの東南アジアの開放を信じて戦ったわけだし
その人たちが後世の人間にセコいと言われるのはあまりにかわいそうだ


48:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:51:05.72 ID:FvEmfBeM0

>>40
戦争にセコいとかあるか 人の生死がかかってんだ
立派な作戦だろうが あと強奪じゃない解放だ
日本は解放したあとアメのように非道な行いはほとんどしてない
その植民地解放でどれだけの民族が搾取されずに残ったから知ってるか?
もっと歴史勉強しようぜ

あと単芝しね


64:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:59:51.65 ID:qHEYZcOfO

>>48みたいなやつって自虐史観から右に転向してそれっきりで終わる場合が多い
他人に勉強しろという前に自分はどうなんだよ
左右両方の言い分を吟味したのか? 右側しか見てないんじゃないのか?


42:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:46:37.59 ID:FvEmfBeM0

それよりも前に米より先に別の攻撃を仕掛けてきたことを忘れるな
戦わなければ、奴隷
戦えば、敗戦
この2択を突き付けられてたんだ

米は全アジアを劣等種と思い全てを植民地にしようとしてた
あの時日本が戦わなかったら今のように発展すらしてなかったかもしれない


43:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:48:06.26 ID:zSG6swUa0

>>42
今のイランがまさにそれだな。日本はイランと仲良かったんだし、制裁なんざ
うっちゃらかって仲良くするべきだったんだ


46:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:50:15.61 ID:7ST1TCUi0

>>43
今でも仲良くはしてくれてるけどね
イランさんは寛容だ それに比べてジャイアンときたら


53:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:53:29.29 ID:Em5MQgYn0

あの当時の米世論は戦争は嫌だって感じだったから日本と衝突を避けるため軍は真珠湾奇襲を放置した
ところが大惨事になってほぼすべてのアメリカ人が激怒して戦争になった


62:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 11:58:43.52 ID:RSZcAhpx0

真珠湾そこまで被害出てないだろww
空母沈められんかったし


65:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:00:21.58 ID:Em5MQgYn0

>>62
戦艦5隻沈没
駆逐艦2隻沈没
標的艦1隻沈没
戦艦3中破
巡洋艦3中破
航空機188破壊
航空機155損傷
戦死2,345
民間人57
これがたいしたことないと


68:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:02:23.12 ID:7ST1TCUi0

>>62
つーか空母なかったろ


73:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:04:40.45 ID:RSZcAhpx0

>>68
あった。ただしたまたま港からでていた。
奇襲知ってたからとしか思えないけどね


78:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:07:32.19 ID:7ST1TCUi0

>>73
たまたま 
というかあの頃は対独メインで太平洋はあまりきにしてなかったんだろ
太平洋側に持ってくるのすごく時間かかるし


83:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:12:24.74 ID:RSZcAhpx0

>>78
残念だが日本の真珠湾奇襲が12月8日
独伊の対米宣戦布告が12月11日だ


99:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:18:31.86 ID:7ST1TCUi0

>>83
宣戦布告は日本が攻撃したからでしょ
イギリスと手を結んでたんだから主力は欧州方面に向けてたと考えるほうが自然じゃないかね
それに雷撃が確立されてないし空母で艦を沈めるよりも戦艦同士で撃ちあうのが主力だった
日本には戦艦をぶつけたほうが当時までは良かったんじゃないか


74:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:04:44.07 ID:6n+q61ErO

自国の正当化の結果が戦争だろ


76: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2012/02/25(土) 12:06:58.26 ID:f469KX4D0

満州の権益ほしさに経済封鎖したりする人たちよりはよっぽどましだと思うけどね


79:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:07:50.11 ID:5314hu6Q0

空母の件は陰謀説は微妙だな
奇襲がある事自体は掴んでいたがその志向先はフィリピンだと思ってたと言うのが常識的
そもそもあの頃の米国人が日本猿がいきなり哨戒網抜けてハワイ奇襲出来ると信じないという方が頷ける


80:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:09:50.42 ID:i4iQoQPE0

大使館職員か二日酔いで宣戦布告遅れたんだっけ?
こんなんで戦争勝てるわけないよね


86:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:12:39.28 ID:7ST1TCUi0

>>80
もともと勝つつもりはなかったんだよ
一部のバカ以外は


89:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:13:17.02 ID:zSG6swUa0

第二次大戦で軍だけじゃなく背後の民間人もフルボッコにしようという戦略
が始まったんだからな。名目は軍事施設の攻撃なんだろうが。


93:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:15:56.41 ID:JfC0KENDO

イギリスには宣戦布告したのかな?
タイミング的にはマレー半島の方が若干早く戦端を開いたみたいだけど。


100:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:22:18.57 ID:i4iQoQPE0

>>93
イギリスにも宣戦布告前に攻撃してるぞ


95:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:16:33.53 ID:zSG6swUa0

イタリアは戦後日本に賠償請求したよね


97:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:17:14.52 ID:Em5MQgYn0

>>95
マジかよ


99:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:18:31.86 ID:7ST1TCUi0

>>95
イタリアは戦勝国だからな
負けそうになると寝返る


101:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:23:12.92 ID:1Dll+04/0

どうでもいいけどイギリスとかって昔植民地持ってたこと自慢してるのに
なんで日本はこんなにも卑屈なのだろうか


103: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2012/02/25(土) 12:24:39.97 ID:f469KX4D0

>>101大敗したからだよ そして占領統治下で誇りも何もかもを打ち砕かれたから


109:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:32:20.62 ID:J2cXcxlU0

たしかあの時の日本軍の戦術はドイツのパクリだった
奇襲はドイツの基本戦術だし国際法的にも問題はなかったはず


111:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:33:56.48 ID:TUiWY/L/0

むしろイギリスの植民地だったところって植民地であったことを誇りに思ってない・・・?
コモンウェルスとか形成しちゃってるし
香港も中国扱いされるよりイギリス扱いされたいみたいだし
いやまあそれはわかるけどね


112:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:35:28.80 ID:76Z16qEp0

>>111
日本統治下のシンガポールの話は有名だな

でも南アみたいな例外もあるから一概にそうとは言えないと思うよ


114: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2012/02/25(土) 12:37:28.51 ID:f469KX4D0

>>111香港に限って言えば、中国よりはましだからじゃないの


113:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/25(土) 12:36:15.97 ID:NhM3W4pS0

アメリカに戦争で勝つ事を諦めた国民しかいなくなったな
金玉アメリカに取られたったわ






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2012年02月21日

鈴木史朗さんが「南京大虐殺」は真実ではないと思う理由

鈴木史朗さんが「南京大虐殺」は真実ではないと思う理由


全文起こしここから____________________________
 


今日ボクが見た風景


【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】

 鈴木史朗(フリーアナウンサー)
 1938年、京都生まれ。62年、早稲田大学法学部卒業後、TBSに入社し、アナウンス部へ配属、その後報道局なども経験。主な出演作品に、TBS『さんまのスーパーからくりTV』、『水戸黄門』(ナレーション)、日本テレビ『オジサンズ11』など。著書に『鈴木史朗の健康道場 ご長寿TVで長寿のコツ』(小学館文庫)。

〈「もう一度南京へ」〉

 TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。

 撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。

 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。

 さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」


 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。

 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

 ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。

 「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」

 他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。

  「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」

 「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」

 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」


 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

〈天津での日々〉

 私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。

 残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。

 そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。


今日ボクが見た風景


 引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

 もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

 「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。

 父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

 当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

 たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。

 天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

〈中国人女性にモテた父〉
 
 父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。

 父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。

 ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

〈南京ののどかな光景〉

 胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

 しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。

 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

 「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

 また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。

 「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

 この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。

 あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

 もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。

〈命からがら引き揚げ〉

 歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

 優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

 終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。

 こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

 幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

〈テレビ局の「自主規制」〉

 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。

 社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月〜〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

 この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。

 プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

 報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。

 すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。

〈日中の未来のために〉

 「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありません。

 私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。

 映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。

 「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」

 我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。

 ____________________________全文起こしここまで


 鈴木さん、子供の頃に南京に行かれたこともあったんですね。
 1938年2月のお生まれですから、3〜4歳の頃ということは、1941年から42年頃にかけてでしょうか?
 南京戦があったのは1937年12月ですから、4〜5年後ですよね。

 本当に「大虐殺」があったのなら、そのわずか4〜5年後、南京の中国人は、南京にやってきた日本人に対して親しげにはしないでしょう。日本人の子供(鈴木さん)を気に入って抱き上げたりもしないでしょう。

 それ以前に、日本人の側も、「反日感情」を怖れて南京に出入りしようとはあまり考えないでしょうし、ましてや幼い子供(鈴木さん)を連れて行くなんてことは常識ではあり得ないと思います。

 南京陥落直後ですら、このようなのどかな光景の写真がいくつも残されています。


今日ボクが見た風景


【昭和12(1937)年12月17日撮影/「支那事変画報」大阪毎日・東京日日特派員撮影、第15集より/わが軍から菓子や煙草の配給を受け喜んで日本軍の万歳を叫ぶ南京の避難民/撮影者、佐藤振壽(毎日新聞カメラマン)/ソースURL


今日ボクが見た風景


【昭和12(1937)年12月20日 南京住宅街にて撮影/「支那事変写真全集(中)」と朝日新聞昭和12年12月25日より/支那事変写真全集(中)上海戦線 南京陥落後旬日(じゅんじつ)にして、早くも平和の曙光に恵まれた市中では、皇軍将士と共に玩具をもてあそんでたわむれる支那の子供達/撮影者、朝日新聞林カメラマン/ソースURL


 ところで、鈴木史朗さんは最後の方で、かなり思い切ったマスコミ批判というかテレビ局批判をされてますよね。
 最近あまりテレビでお見かけしないのは、もしかしてそれが原因だったりするのでしょうか?

 仮にそうだとしたら、【「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続ける】うえに、「真実」を伝えよという鈴木さんのような人を弾圧していることになり、ますます【報道人としての風上にも置けません】よね。

 余談ですが、鈴木さんって実は「ゲーマー」だそうですね。
 特に「バイオハザード」の腕前は超人的だとか。
 最近知って驚きました(^_^;

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「南京事件」今改めて見直すべき日本人48人の証言の「真実」(「SAPIO」2002/02/27号)
Japan On the Globe(455)■ 国際派日本人養成講座 Media Watch: 「南京大虐殺」の創作者たち 中国の中央宣伝部に協力した欧米人記者たち


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2012年02月06日

苦難の民





ヨーロッパを目指し、サハラ砂漠を横断する

 ナイジェリアやソマリアの難民たち。
 しかし全員が辿り着けるわけではなく、途中で力尽きてしまう人々も・・・。
 これは一緒に旅に出て、生存したナイジェリアの男性が撮った映像です。
 この力尽きてしまった方々の中には、
 彼の家族、いとこ・友人なども含まれているとのことで、非常につらい現実です。








生きる為に産まれた地を捨て
命をかけて新天地にたどり着く

多くの犠牲をはらいながらも・・・



苦難の民



救われた地で 謝罪だ賠償だと寝言をほざく馬鹿もいる
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ギルバート諸島タラワ・マキンの戦い





ギルバート諸島



キリバス共和国、通称キリバスという国は、赤道付近に3800km2にもわたって散らばっている33ものの環礁によって構成されている国です。

人が住んでいるのは、そのなかの21の島で、総人口は約10万人です。
ほとんどがミクロネシア人で構成され、そのミクロネシア人は、2000年前にカヌーに乗ってやってきたとされています。

キリバスは、ギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島によって構成されています。

明治25(1892)年、ギルバート諸島は、隣のエリス諸島と共にイギリスの保護領となります。

ギルバート諸島は、大正5(1916)年、当時の大英帝国の植民地となった。

昭和16(1941)年、大東亜戦争開戦とともに、日本がこれを占領し、統治します。

理由は、米国との対戦にあたり、戦線はできる限り本土から遠い方が良いこと。
ギルバートの島々の英米からの独立を果たさせることの2つです。

キリバスには、「吉里巴斯(キリパス)」の漢字が充てられた。

当初、日本がキリバスにおいた兵力は、タラワ、マキンの2か所に、それぞれ70名程度と小規模なものです。

そして、基本的にそこは戦場となる危険もあることから、陣地を築くのは、島民がいない島としてタラワ、マキン(ブタリキリ)の2つの環礁に駐屯した。

昭和17(1942)年8月、マキンにいた日本の第62警備隊70名に、米国第2海兵襲撃大隊約220名の海兵隊員が奇襲を行います。

日ごろからよく訓練されたマキン警備隊は、突然の奇襲攻撃によって、いきなり半数を殺されるという大損害を受けるけれど、そこからよく反撃し、翌日には、米海兵隊を撃退した。

この戦闘のあと日本は、米軍の本格的な太平洋反撃作戦を予想し、太平洋上の防衛圏確保を目的として、ギルバート諸島守備隊を増強します。
といっても、相変わらず島民の住んでいない、タラワ環礁のペティオ島、マキン環礁のブタリキリ島だけです。

ちなみに、マキンのブタリキリ島というのは、ギルバート諸島の北端の島で、「V」の字を大きく左右に広げたような形の長細い島です。


マキン・ブタリキリ島



タラワのペティオ島の方は、ブタリキリよりかなり大きいけれど、島は「L」の字を左右反転させたような形をしていて、島のいちばん幅の太い場所でも、わずか500Mの幅しかない、そんな小さな島です。


タラワ環礁



そこに日本は、兵を進めた。
国土防衛のためです。
しかし島民には迷惑はできるだけかけたくないから、ギルバート諸島の南端(タワラ)と、北端(マキン)の2か所の無人島に基地を築いた。

マキン環礁のには、軍人353名、軍属340名(うち朝鮮出身200名)の合計693名を派遣した。
タラワ環礁のペティオ島には、柴崎恵次少将率いる4800名が派遣された。

この2つの島は、どちらも玉砕戦となります。

激戦の末、マキンでは、693名中589名が死亡。朝鮮人軍属104名のみ生還。
タラワでは、4713名が死亡。朝鮮人軍属129名のみ生還している。

太平洋の彼方まで、どうして兵を進める必要があったのか疑問に思う人がいるかもしれません。

簡単にいえば、防衛ラインは、本土から遠いほどよい、ということです。

本土に近いところに敵の軍事基地ができれば、敵はそこを拠点に攻撃してくる。
補給もそこでできる。
怪我人の介護も、そこでできる。

航空機による爆撃戦が可能になった近代戦では、そこから爆撃機を飛ばして本土爆撃をすることができるようになる。

だから、防衛ラインというものは、遠いほどよい。

こための前線基地が、敵国の国土により近いところに構築されると、これは「防衛ライン」ではなく、攻撃のための前線基地という意味になります。

日本は、大東亜戦争開戦当初、12月8日に真珠湾を攻撃し、12月10日にはタラワ、マキンといったギルバート諸島を、それこそあっという間に占領しています。

もし、日本が対米侵略戦争をしかける意図があったのなら、そのままハワイの真珠湾を占領し、米国太平洋岸まで攻め入って、米国太平洋艦隊基地を、まるごと占領するという選択肢もあった。

攻撃は最大の防御なのです。
護る戦いよりも、攻める戦いの方が、数段やりやすい。勝ちやすい。

しかし、日本はそれをやっていません。
なぜなら、あくまで大東亜戦争は、防衛のための戦争だからです。
断じて侵略戦争ではない。

これは太平洋戦線の布陣を見るだけでもあきらかです。地図を見たら素人でもわかる。
日本が敷いた絶対的防衛ラインというものは、あくまで、敵爆撃機による本土ならびに朝鮮半島、台湾、満洲、樺太といった当時の日本を守るための布陣となっている。

なかには支那には侵略したではないかという人もいるかもしれない。
しかしそれも違います。
支那は、大東亜戦争よりも早くから、すでに支那事変が起こっている。
これは、日本が大陸に得た正当な権益に対し、当時米英から補助物資を得た支那の軍閥が不当な戦いを挑んできたものにたいし、これも防衛のためにやむなく戦ったものにすぎない。


タラワ島(ギルバート諸島)に今も残る日本軍の砲台



話が脱線しました。

タラワ、マキンに話を戻します。

日本は、昭和18(1943)年2月15日、帝国海軍は、横須賀第6特別陸戦隊などをタラワ・マキンに送り、横須賀第6特別陸戦隊改編を新編成し、地上防護施設や航空施設の増強を始めます。

特にタラワ環礁のベティオ島では、地下陣地による全島の要塞化を目指した。

ベティオ島は、東西3,500M、南北の最大幅500Mの小島です。

タラワ守備隊約四六〇〇名は、そこに飛行場を建設し、堅固な要塞を築いた。

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陸上には鉄レールを骨組みにしたコンクリート製の地下戦闘司令所をはじめ、椰子丸太で構築した半地下式トーチカを無数に造った。

これらのトーチカは、直径20cm以上の椰子丸太を2Mの幅で2段に重ね、その中間に岩や砂をつめこんだものである。

天蓋(屋根)にも2M以上の覆土を盛り上げた。

しかも各トーチカは地下壕で連絡されていた。

直撃弾ならともかく、至近弾ぐらいでは、いかなる巨弾が落下してもビクともしない堅牢さである。

海岸線にはやはり椰子丸太で組んだ防壁をほどこし、海中にも丸太と角材を二重にしばりつけた防壁をめぐらした。
(佐藤和正『玉砕の島』)
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主戦力の佐世保第7特別陸戦隊には、軽戦車なども与えた。


同じ年の5月には、北太平洋のアリューシャン列島のアッツ島で、山崎保代大佐以下2000名が玉砕する戦いが行われています。

そして、同年7月にギルバートの防衛指揮官として柴崎恵次少将が着任する。


米軍は、この島の攻略のため、入念な調査を行います。

そして航空偵察の結果、タラワ日本軍の兵力を4500人と正確に割り出した。
決め手は、航空写真に写っている便所の数だったそうです。

日本軍は、一個の便所を何人で使わせるかを決めていた。
だから便所の数で、兵力が特定できた。

この特定があまりにも正確だったので、「(情報部の)主任参謀シャウプ中佐は“第二次世界大戦中に撮影された最上の写真”だといった」そうです。(ヘンリー・ショート著『タラワ』宇都宮直賢訳)

こういう話は、日本軍の戦いによく聞きます。
日本人は、米の飯を食べるから、食事時になると炊事の煙がたつ。
それで兵隊の隠れている場所が特定できた、などという話もあります。

これに対し、欧米はパン食です。フランスパンなどは、非常に硬いパンだけれど、これはナポレオンが遠征の際の兵の食事用に考案したとされる。硬く乾燥させることで荷物を軽くし、長期間の食用に耐えられるようにする。そして食事時に煙がたたない。

要するに、日本という国は、元来、戦い人の国ではない。そもそも平和を愛する民の国なのです。


わずか4600名、しかもそのうちの約2000名は、建設労働者の朝鮮人です。

実際の兵力は、

第3特別根拠地隊本隊 902名
佐世保第7特別陸戦隊 1669名

合計2571名しかいない。

そこに、米軍は18,300人の人の上陸部隊と、最新鋭の空母6隻、戦闘機や爆撃機を400機以上、重巡洋艦(1万トンクラスの軍艦)4隻、軽巡洋艦(3000トンクラスの軍艦)、駆逐艦16隻、潜水艦10隻など、計200隻にのぼる艦隊を差し向けた。

投下兵力の合計は、35000名です。

昭和18(1943)年11月10日、レイモンド・スプルーアンス中将率いるマキン・タラワ侵攻部隊が、ハワイの真珠湾を出発します。

11月19日、タラワとマキンへ、同時に事前攻撃が始まる。
3日間、休むことなく猛烈な絨毯空爆と、艦砲射撃の雨を降らせた。
トーチカの位置は、あらかじめ航空写真で、建築中の様子からずっと観察してある。
米軍の艦砲射撃は、正確に日本軍のトーチカを攻撃してきます。

この間、いつ上陸用舟艇が来るか、まったく予断ができない。
日本兵は、一刻の休みなく、猛爆に耐えに耐え、トーチカの内部にいて崩れた場所の修繕などを行い続けた。


11月21日午前3時、タラワ環礁の外側にいた米軍の輸送船から上陸第1波である125両の上陸用舟艇が、タラワ環礁の西側の水路から侵入を開始します。

それまで、ずっとまったく反撃のそぶりを見せずに地下に潜っていた日本軍の西海岸の砲台が、ここではじめて火ぶたをきった。

日本軍の大砲の性能は、米軍のそれと比べてはるかに劣るものです。
しかし、日本側の砲撃は、正確に上陸用舟艇を一艘ずつ打ち砕く。
米軍上陸部隊は大損害を被り、敗退します。


トーチカからの発砲を見た米軍は、旗艦である戦艦「メリーランド」から主砲射撃で、日本軍のトーチカをねらい打った。

固く閉ざしたトーチカは、砲撃に耐えます。
しかし、反撃のために口を開いたトーチカは、内部を表に露出している。

そこをめがけて、メリーランドの巨大な対戦艦向けの主砲が撃ち込まれた。

この時一発の砲弾が日本軍の弾薬庫に命中し、島を揺り動かすほどの爆発が起こっています。

上陸をいったんあきらめた米軍は、島の砲陣地や機銃陣地に対して、再び全艦あげての艦砲射撃を行い、さらに艦載機による空爆を加えた。

日本軍守備隊は、この爆撃によって電話線が修理不可能となり、命令伝達系統が完全に麻痺する。もはや本部命令は前線に届きません。

これによって、守備隊は、各攻撃部隊やトーチカごとに、今後、独立した自由意思で戦うことになる。

米軍は、礁湖内に駆逐艦2隻を進出させます。
そして日本軍トーチカを砲撃する。
これに対し、日本軍の海岸砲が正確に発砲し、1隻に命中弾をあたえます。
しかし、この命中弾は不発弾となって、敵駆逐艦上に転がった。

米軍は、その駆逐艦の掩護を受けながら、再び上陸用舟艇を海岸に差し向けます。

3個大隊の兵力を6波に分け、3分間隔で海兵隊を発進させ、その後に戦車や野砲等の重装備を積んだ舟艇群が続いた。各大隊への攻撃割り当て幅は、わずか海岸線上約360Mだあった。

島の波打ち際から450M先に、サンゴ礁のリーフがある。
海底はそこから垂直にきりたっています。
リーフから海岸線までは、浅瀬になる。

リーフに、米軍の上陸用舟艇の第一波が近づいたところで、日本守備隊は砲撃を開始します。
砲弾は正確きわまりない。
さらに近づこうとする敵兵には、機銃掃射が行われる。

米軍の上陸用舟艇は、海岸にたどり着く前に命中弾を受け、なんとか海岸に辿り着いた船も、損傷が激しく、それ以上は動けなくなった。

第4波以降の重装備部隊も続々とリーフに辿り着いたが、リーフ上の水深は60〜90cmしかない。重い荷物は大型の船で運べない。

そこで米軍重装備隊は装備を頭上にかかげ、海岸への徒渉上陸を試みる。しかし、サンゴの環礁というものは、浅瀬の向こう、岸までの間に、再び水深の深い海が広がります。

米兵は、重い装備のため海に沈み、溺れ死ぬ者が続出した。
そこへ日本軍守備隊が海岸から機銃で攻撃を加える。

米軍は、その無茶な戦法のため、海岸にたどりつくことすらできなかった。

わずかに海岸にたどり着いた者は、奥行き60m程度しかない砂浜の陸地側にある、高さ1.2mの防壁の側に身を潜めたけれど、米軍は、この時点で上陸用兵約5000人の半数を失っていた。

午前6時35分、柴崎司令は「全軍決死敢闘士気旺盛ナリ」との戦況を打電。

上陸部隊の苦境を見た攻撃隊指揮官のデビット・シャウプ大佐は連隊予備の前線参加を命じ、さらなる艦砲射撃と航空支援を要請します。

要請に基づき、米軍は再び艦砲射撃と空爆を開始。
この時の砲爆撃に際しては、米軍の上陸部隊が日本軍陣地を無線電話で誘導することで、命中精度が向上した。

同じ頃、ジュリアン・スミス師団長は師団の予備兵力である海兵1個連隊の投入を決定した。


この二度目の艦砲射撃で、日本側の死傷者は急増します。

本来、大将のいる戦闘指揮所は、軍の頭脳にあたる場所です。ここは、もっとも頑健で安全度を高くして構築する。

柴崎恵次少将(隊長)は、多発する怪我人を見て、すかさず戦闘司令所までも負傷者の治療所に提供します。激しい戦いのさなかにあっても、ひとりでも多くの兵士たちの命を救いたい。

午後12時、柴崎少将は、参謀や司令部要員を連れて外海側の防空壕に移ります。

移動直後、その防空壕に直撃弾が命中する。
柴崎少将以下、先任将校、軍参謀に至る前線の指揮官全員が爆死してしまいます。


すでに電話線は切断されている。前線基地同士の互いの連携は、地下通路を走る伝令だけです。それでも隊長以下、部隊指揮官全員死亡のニュースは、すぐに全隊員に知れ渡ります。

本来なら、軍の頭脳を失った兵隊は、ここで各トーチカごとに白旗を掲げれて降参すれば良い。そうすれば、米軍の捕虜になり、命だけは助かります。

しかし、日本軍の兵士たちは、誰一人そうはしなかった。

タラワの前線基地を失うことは、そのまま米軍がインドネシアの本体への攻略を許すことになる。だから彼らは戦うことを選択した。誰一人、白旗は掲げなかった。

日本兵は、予め定められた部署によって各隊は迎撃を続行し終日敵を圧迫した。

そのうちに日が暮れます。

上陸を果たした海兵は砂浜に眠りこけ、無茶苦茶に陸揚げされた物資が山をなしていた。

この有様を見た海兵隊の指揮官達は日本軍による夜襲を恐れたけれど、何故か日本軍は何もしなかった。上陸作戦に先立つ砲爆撃によって日本軍の電話通信網が切断されたためと判断されたといいます。


翌11月22日午前6時、さらに新手の米海兵隊が上陸を開始します。

前日上陸していた海兵たちは護岸堤防の影に隠れ、味方の上陸部隊がいまだ衰えない日本軍の砲撃に晒されるのを振り返って見ていた。

まだ健在だった日本軍の海岸砲や迫撃砲が砲撃を開始します。

なかでも、米軍にとてつもない被害を与えたのが、島から少し離れたところに座礁していた輸送船「斉田丸」もぐりこんだ日本軍兵士です。

夜の間に、座礁した「斉田丸」に乗り込み、船の機関銃を上陸兵たちに乱射した。
「斉田丸」からの機銃掃射は、絶大な効果をあげます。
上陸しようとする米海兵は、大損害を被り、大混乱に陥ちいる。

これを脅威と考えた米軍は、「斉田丸」を沈黙させようとして、F6F戦闘機4機で「斉田丸」に機銃掃射をします。しかし「斉田丸」は沈黙しない。

続いて小型爆弾を抱えたF6F戦闘機を3機差し向けた。
「斉田丸」に対し1番機、2番機は至近弾を与え、3番機は直撃弾を与えたけれど、「斉田丸」の機銃は沈黙しない。空爆をまるでなかったかのごとく、機銃を打ち続ける。

米軍は、今度は12機のF6F戦闘機で「斉田丸」に次々と爆弾を投下した。
ところが「斉田丸」に直撃弾が当たらない。

ようやく1発だけ命中したけれど、「斉田丸」の機銃は無傷。

やむなく米軍は、工兵部隊によって決死隊を編成して「斉田丸」に近づき、高性能爆薬を仕掛けた。高性能爆薬により「斉田丸」は大爆発を起こし、「斉田丸」の日本軍の機銃は沈黙した。

すでに命令系統がなくなった状態で、単身で斉田丸を確保し、死ぬとわかって機銃掃射を続けた日本人兵士。いまでは、その方のお名前すらわからないけれど、その勇敢な行動に、頭が下がります。

「斉田丸」が制圧されたのが午後3時です。「斉田丸」を確保した日本兵は、まる半日以上、その箇所での米軍の上陸を阻んだ。

22日夕方には、戦車を先頭に押し立てた米上陸部隊の攻勢が始まります。

米海兵は、海岸に強力な拠点を築き、大砲や戦車が続々と陸揚げした。

その日の夜、その米軍拠点に、約300名の日本兵が突撃したが、米軍の重火器の前に、全員玉砕する。

この時点で、日本軍の残存兵力は、約500名。
彼らは、島の東端に追いつめられた。

米兵たちは、猛烈な援護射撃を受けながら、火炎放射器と爆薬を用いた「溶接バーナーとコルクせんぬき」戦法で、日本軍陣地をひとつひとつ潰します。

火炎放射機というのは、まず壕内の酸素を奪う。そして窒息して苦しむ兵士に生きながら火をつけ、焼き殺す。


翌11月23日、日本軍東地区守備隊の生き残り約350名が、飛行場の東端陣地に集結し、米軍に対し、最後の抵抗を行います。

すでに武器弾薬の乏しくなっていた日本兵は、米兵をギリギリまで引きつけて、拳銃、手榴弾、銃剣で、これを斃した。

接近戦による白兵戦なら絶対に負けない。これは日本兵の自信でもあった。

ちなみに、大柄な白人に対し、小柄な日本人が白兵戦で戦って絶対の自信を持っていたことには理由があります。

戦前の日本人将兵は、みんな柔道と剣道をやっていた。
剣道の「体さばき」は、猛烈なスピードで変幻自在に繰り出される刀の切っ先を毛筋一本で、見切り、かわします。
よく時代劇などで、刀と刀を、チャリーンと合わせるシーンが出るけれど、あれはウソです。最近のテレビや日本映画では、剣道を知らない外国人が監督をやるから、ああいうウソがまかり通ってしまう。
日本刀での戦いでは、刀と刀は、絶対に合わせません。あんなことをやったら、刀は刃こぼれして折れてしまう。

昔、港などで日本人と外国人が喧嘩になると、日本人はやたらと強かった。相手はボクシングのパンチを繰り出すのだけれど、これが日本人相手にはまるで当たらない。次々とかわされてしまうのです。それもそのはずです。どんなにボクシングのパンチが早くても、刀の切っ先のスピードには敵わない。

その刀でさえもかわす「体さばき」でパンチをかわし、近接したら柔道の技で投げ飛ばす。
小柄な日本人のあまりの強さに、世界中の港の荒くれ男たちは、日本人を恐れた。

最近は、キックボクシングや空手が流行っているけれど、剣道の達人に敵う武道家はいなかったという話もあります。

11月23日の夜、日本軍の残存守備隊約350名が最後の突撃を敢行します。

突撃は、3班に分かれて行われた。

このときの模様を、日本兵の生き残りの一人、音里一等水兵は次のように書き残しています。

---------------------
この日、夜になって最後の突撃を敢行することになりました。

もう手元には手榴弾も残っていません。
重傷者に渡す自決用もないんです。

動けない者は、銃口を口にくわえ、足の親指で引き鉄を引いて死んでゆきました。

それすらできない者がいます。
足を砕かれている者ですよ。

彼らは互いににじり寄ると、手に帯剣を握りしめ、気合もろとも心臓を刺し合うのです。

心臓を突き刺したら、人間はすぐに死ぬと思っていたのですが、なかなか死なないのには驚きました。

見るに見かねて、戦友が介錯しましたけど、自決するときは心臓を選んではダメですね。
(『佐藤和正『玉砕の島』)
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音里氏は突撃部隊に向けて発射された迫撃砲弾に吹き飛ばされ、気を失ったまま捕虜となった。

11月25日、戦闘開始から5日目、西地区守備隊第一波突撃隊50名も同様に玉砕しています。

このとき、第二派突撃隊は、第一波突入隊の攻撃が終わるまで、防空壕に待機していた。
米軍は、その壕内に火焔放射器による攻撃をおこなった。
火焔放射をやられると、トーチカ内は酸素がなくなり、窒息し、最後にあぶられて黒こげになる。

その防空壕でただひとり生き残り、戦後生還した人がいます。
大貫唯男氏(当時上等兵曹)です。彼は次のように書いている。

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私のからだには、黒焦げの死体が重くのしかかり、あたり一面にちぎれた手足が飛び散って、これまでの戦闘で見馴れたはずの私でさえも、思わず眼を掩いたくなるような惨状が現出していた。

さっきまで生死を共にしようと誓い合っていた15名の戦友はすでになく、幸運にも私だけが戦友の死体の陰にはかない命を拾ったのだ。

いくらか顔に火傷はしていたが、わたしには五体完全な自分の姿がどうしても信じられず、しばらく呆然としていた。
(「タラワ島玉砕す」『実録太平洋戦争 第三巻 アッツ玉砕からインパール作戦まで』)
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大貫氏は、彼と同様に生き残った7名とともにしばらく隠れるようにして3週間ほど島をさまよいます。

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捕まれば殺されるものと思っていた私たちは、どうせ捕まって殺されるなら、いさぎよく自分の手で命を絶とうと、7人で一緒に首を吊ってみた。

しかし、貧弱な綱はプツリと切れて、私たちは見事に死にそこなってしまった。
いまは死のうにもピストル一つ、刃物一つないのだった。
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7名は、その後意識不明のまま米軍に捕まり、捕虜となった。

結局、タラワで捕虜になった日本兵は17名です。
これとは別に、基地建設要員として赴任していた朝鮮人軍属129人も捕らえられた。
戦死4,713名。日本人捕虜17名。朝鮮人の捕虜129名。

タラワの玉砕は、アッツ島の玉砕とちがって守備隊からの連絡はありませんでした。
米軍上陸の報告を告げたあと、守備隊の無電は途切れてしまったからです。


タラワ守備隊が戦っているとき、連合艦隊はこの救出のために、必死の努力をします。

タラワの戦いの間、アメリカ軍の来襲を知った日本軍は、救援のために以下のような作戦をおこなっていたが、十分な成果を上げることは出来なかった。

まず聯合艦隊は、上陸のあった21日には、ポンペイ島にいた陸軍甲支隊の派遣を決め、軽巡3隻、駆逐艦2隻、輸送船2隻からなる輸送部隊と、重巡4隻、駆逐艦6隻からなる邀撃部隊を編成し出発させた。

しかし、26日、マーシャル諸島のクェゼリンまで進出したところで、タラワからの通信が22日の午前中から途絶し続けたため、25日には、玉砕と判断。支隊の派遣を中止しています。

さらに聯合艦隊は潜水艦9隻をギルバート海域に進出させ、米海軍機動部隊の攻撃及び索敵を行ない、24日には、伊175潜がマキン沖で護衛空母リスカム・ベイの撃沈に成功しています。しかし、海を覆うばかりの圧倒的敵艦船の前に、日本軍は潜水艦6隻を失っている。

マーシャル諸島のルオットからは、海軍航空隊による決死の反撃も行った。
この部隊は、ギルバート沖で米航空部隊と遭遇。
ギルバート諸島沖航空戦が展開し、21日には、軽空母インディペンデンスを大破させた。

22日にはタラワ応援のために陸攻9機、戦闘機39機を発進させているけれど、これは天候不良で途中で引き返さざるを得なかった。

さらに、陸攻の魚雷を爆弾に積み替え、米軍タラワ上陸部隊への昼間攻撃をすべく発進したけれど、これも天候不良のため途中で引き返さざるを得なかった。

22日の夜にルオットを発進した陸攻4機は深夜、タラワ上空に到着し、米軍の上陸地点を二航過して爆弾8発を投下、米軍に戦死者1名戦傷者8名を出したけれど、誤って日本軍陣地にも着弾させている。日本軍にも被害が出たと思われるが詳細は不明。


おなじく、11月21日から23日にかけて、マキン守備隊693名も、戦死589名を出して、玉砕した。残りの104名は捕虜となったが、このうち日本人は意識不明で拿捕された3名のみ、のこりの101人は、土木作業要員であった朝鮮人軍属です。
彼らは、もともと約200名いたのだけれど、日本の将兵は、彼らを開戦と同時に、安全な弾薬庫に隔離し、戦いに参加させなかった。

しかし米軍はその弾薬庫に手榴弾を投げみ、自動小銃を乱射した。そのため約半数が死亡。
生き残った101名は、戦闘早々に米軍の捕虜となっています。

マキンに投下した米兵は、6470名。これに艦載機、艦砲射撃が加わった。
絶対的兵力差は、100倍以上でした。


このタラワ・マキンの戦いについて、日本語で書かれたいろいろ本やサイトを読むと、日本軍=悪、米軍=善意の兵隊のような表現をしているものが多いことに驚かされます。

しかし、そういう人たちにいいたい。

尚、この両島での壮絶な戦いを通じ、島民の被害者は誰も出ていません。

そして、タラワ・マキンの戦いのあと、米国は、キリバス諸島を領有し、戦後も領有をし続けた。

そしてこの地で、英米両国は、昭和31(1956)年〜昭和47(1962)年までの間、米英は、ここで核実験を繰り返し行っています。

怒った住民の決起で、昭和53(1978)年にエリス諸島がツバルとして、昭和54(1979)年にキリバスとして独立を許された。
ただし、以後、核実験による被害弁償を請求しないことが条件です。


やさしさが命取りになったタラワの柴崎少将は、兵庫県加西市ご出身の方です。享年49歳。
「斉田丸」で、猛烈な反抗をした勇敢な兵士もいた。米軍のフイルムを見ると、彼らが斉田丸ひとつに、どれだけ苦しめられたかがわかります。
そして平べったい、小さな島に、猛烈な空爆やら艦砲射撃やらを行った。

タラワで亡くなられた守備隊兵士4,713柱、マキン589柱。

私たちは、同じ日本人として、彼らに心から感謝の意を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げたいと思います。



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2012年01月16日

大東亜戦争にいたる流れの説明

大東亜戦争にいたる流れの説明




大東亜戦争は支那事変(日中戦争)から始まった!

日本は中国大陸でも戦争していたので、
アメリカ視点の「太平洋戦争」という表現自体、おかしいと思いますが、
日本は1937年から中国と戦争中でした。
しかも日中戦争は中国から日本に攻撃して来て始まりました。

その、日本が戦争してる相手の中国にアメリカが軍事資金や武器を
援助し続けていたので、
中国が、いつまで経っても戦争をやめようとしないので、
アメリカが中国に武器を輸送していた援蒋ルートを遮断するために、
日本は仏印と平和的に話し合って、日本軍は仏印に進駐しました。

するとアメリカが日本への石油禁輸をしたので、
石油がないと治安が維持できず、国防できず、経済活動もできなくなるので、
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をしました。

その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために、
先手を打って真珠湾を攻撃したのです。

アメリカは日本に、
「仏印から撤退しろ!、中国、満州から撤退しろ!」
と言っていましたが、
日本軍の仏印駐留も、中国の日本租界も日本租界を守る日本軍も、
満州の権益も、すべて「条約」による正当なものでした。

日本以外の欧米列強の国々も中国に条約で租界を設置し、
欧米列強の軍隊も条約で中国に駐留していました。

日中戦争は中国から日本に攻撃してきたものであり、
不戦条約が認めていた「自衛権」の発動でした。

日本から見れば、「先の大戦」といえば大東亜戦争です。
大東亜戦争は日中戦争から始まり、
その日中戦争にアメリカが間接的に参戦していた格好です。

米英蘭などは自分たちから日本に間接的に中国軍を使って代理戦争を
仕掛けていたようなものなのに、日本は交渉しながら、
英米蘭を直接は攻撃せずに、
中国への支援ルートの遮断を「条約」で行ない、
英米蘭との戦争を回避しつつ日中戦争の早期終結を模索していました。

村山談話では「日本がアジアを侵略した」となっていますが、
日本は、「アジアを植民地にしていた白人」と戦ったのです。

あのような漠然とした談話は卑劣です。
どこまで白人に服従するのが好きなのでしょうか?
なぜ白人を擁護したいのでしょう?

白人は中国大陸から日本と一緒に自分たちも撤退するという事ではなく、
日本にだけ、中国大陸から撤退しろと言っていたのです。

アメリカ様の命令なら、どんな理不尽な事であっても従えというのは、
ただ単に「強い者に従え!」という独裁者の理論と、
それに服従する奴隷根性であり、そこには何の正当性もありません。

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もっともっとコンパクトに説明!

大東亜戦争は支那事変(日中戦争)から始まり、
その支那事変は中国から攻撃してきたものであり、
その中国に武器支援していたのがアメリカであり、
その武器支援ルートの遮断のために、
アメリカを直接、攻撃するのではなく、
仏印と平和的に話し合い、
日本軍は仏印に進駐して武器輸送ルートを遮断しました。

するとアメリカが日本への石油禁輸をしてきたので、
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために
先手を打って真珠湾を攻撃したものなので自衛戦争でした。

アメリカは中国軍に日本を攻撃させて代理戦争させていたのであり、
勝ち目がないも何も、攻撃されているから反撃したのです。

「真珠湾攻撃で戦争が始まった」
と勘違いさせるために「太平洋戦争」という言葉が作られました。

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日本は全滅しませんでした。
そしてまた独立できました。
念願の自由貿易ができるようになって繁栄しました。

結果としてアジアの国々も独立できました。(特定国を含む)
白人はアジアの植民地を失いました。

戦後、アメリカは蒋介石への支援をやめたので蒋介石は台湾へ逃げ、
ソ連が支援する毛沢東が勝ち、中国は共産化しました。

アメリカは日本との戦争でアメリカ兵16万人が戦死し、
中国や満州の権益を得ることはできませんでした。

戦後、日本への石油禁輸は解除し、沖縄を返還しました。

日本の代わりにアメリカが防共をしてきました。

アメリカは、いったい何がしたかったのでしょう?




http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html






【支那事変(日中戦争)の発端】

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件。8月13日、第二次上海事変。

1840年の英清アヘン戦争後、英国を始めとする欧米列強国が
中国内に条約で租界(外国人居留地)を設置し始めた。
日本は1894年の日清戦争後、やはり条約で租界を設置。

上海はアヘン戦争後にイギリスが租借し、
その後、アメリカ、フランスなどと国際共同租界となり、
工部局が運営をしていたが、日清戦争後、
その工部局に日本も参加して運営し、
共同行政権と、それに伴う自衛権を得て、
日本は上海の虹口(ホンキュー)地区を担当していた。

1900年の北清事変で多くの外国人が殺害されたので、
日本を含む欧米列強の軍隊が出動して鎮圧し、
戦後処理の北京議定書(条約)に基づき、
日本を含む欧米列強11ヵ国の軍隊が
自国民保護のために中国に駐留する事となった。

支那事変(日中戦争)の始まりが盧溝橋事件(1937年7月7日)であれ、
第二次上海事変(1937年8月13日)であれ、どっちにしても、
中国側から日本に攻撃して来て始まった。

1928年の不戦条約は米英仏の要望で自衛権は除外されていた。

■1937年7月7日、盧溝橋事件。

1937年7月7日、夜10時40分頃、
北京(北平)西南方向12kmの盧溝橋北側の永定河左岸荒蕪地にて
演習を終えた支那駐屯歩兵第1聯隊第3大隊第8中隊に対して、
突如、数発の銃弾が発射された。
日本軍は約7時間、一発の反撃もせずに
軍使を派遣したり、調査をしていたが、
中国側の攻撃が止まないので、とうとう堪忍袋の緒が切れて反撃を開始し、
中国国民革命軍第29軍との間で戦闘になった。

その後、停戦協定を結んでも
中国は協定を破って攻撃して来るので日本軍は応戦していた。

1937年(昭和12年)

●7月7日、盧溝橋事件。→中国から攻撃してきた。
●7月9日、停戦協定が成立。蒋介石は4個師団と戦闘機を北支に派遣。
●7月10日、200人以上の中国兵が迫撃砲で攻撃再開
●7月11日、停戦協定が成立。日本政府、北支への派兵を声明。
●7月13日、中国兵が移動中の日本軍トラック2台に
手榴弾を投げ込み全員を爆殺。

●7月14日、中国兵が日本の騎馬兵を惨殺。
●7月16日、事件を収集させようとする宋哲元に対し、
蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電。

●7月17日、蒋介石がラジオで『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
●7月25日、郎坊事件、日本軍が攻撃を受ける。
●7月26日、広安門事件、日本軍が攻撃を受ける。

たび重なる中国からの攻撃のため、日本政府は不拡大の方針を
撤回、留保していた内地三個師団の派遣を命じた。
支那があまりにも停戦協定に対して背信行為が多いので、
とうとう我慢できなくなってこの不拡大方針を撤回するのが7月の終わり、
支那に対して最後通告を出して戦闘を始めるのが7月28日だった。

7月28日、支那駐屯軍は宗哲元率いる第29軍への総攻撃を開始した。
するとそれまで日本を挑発していた中国軍はあっという間に
北京、点新築を放棄して南の方へ逃げてしまった。
日本軍はわずか1日あまりで北京・天津地区を平定。

日本が優位に立った7月29日、天皇陛下から近衛首相に、
もうこの辺で外交交渉で決着させてはどうか、という意向が伝えられ、
そこで外務省が和平案を作成する事になった。

日本が北京・天津地方を占拠して圧倒的に優位にある時に、
中国に対する和平提案の発想が生まれていたのである。

●1937年(昭和12年)8月9日、船津和平会談の日だったが、
中国軍が日本兵2人を惨殺してぶち壊した。

●1937年(昭和12年)8月13日、第二次上海事変。

蒋介石の本隊が上海共同租界の日本軍・日本人を攻撃したが
(第二次上海事変)蒋介石は日本軍に返り討ちにされて南京に逃げた。
日本軍は追撃して南京を陥落。
蒋介石は武漢に逃げた。
日本軍は追撃して武漢も攻略。
蒋介石は重慶に逃げたので日本軍は重慶爆撃を行なった。

これが支那事変である、支那事変の始まりが盧溝橋事件であれ
第二次上海事変であれ、どちらにしても中国側から攻撃して来たのである。

これに対して米英は日本に経済制裁を仕掛け、
蒋介石に軍事援助を続けた。

―――――経緯―――――――

午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍(蒋介石軍)が日本軍陣地に対し、
突如、機関銃による射撃を開始して日本軍との間で戦闘状態となり、
「第二次上海事変」が始まった。

ドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製などの最新の兵器を持った
中国軍に対して寡兵の陸戦隊は奮戦した。

八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退。

日本人居留民はどんどん引き揚げたが、
通州事件が再現されるかもしれないとの恐れから、
残っている一人一人の邦人に警備がつけられ、
汽船やブロードウエイマンションに避難した。
それでも800名の婦女子が特別陸戦隊の吹き出しに従事し、
残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作った。

●8月14日、中国軍が上海市街のキャセイホテルやパレスホテルなどを爆撃。

中国人や外国人に大量の死傷者を出した。
中国はこれを日本軍の仕業だと世界中に宣伝。

日本海軍は台風の中、日本から直接爆撃機を飛ばし、
南京などにある中国軍の飛行場や前線基地を爆撃し(世界初の渡洋爆撃)、
上海などに居た日本人を助けた。

●8月15日、日本は正式に松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を編成。

●8月23日、中国軍が上海のデパートを爆撃。
これも日本軍の仕業と世界中に宣伝。

●10月26日、上海近郊の要所である大場鎮が陥落。中国軍は南京方面へ敗走。
中国軍の退却時には堅壁清野と呼ばれる焦土作戦が行われる事が多く、
この時も中国側の敗残兵により掠奪、破壊、放火などが行なわれた。

上海フランス租界の重要機関は放火され、
避難民に紛れた敗残兵と便衣兵(民間人の服装をした兵士)と
フランス租界の警官との間で銃撃戦も起きた。

上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは
軍事上のこととは認めながらも残念なことであるとし、
一方、中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が
非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされた。

10倍近い中国軍を壊走させた日本の上海派遣軍は、
10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。

●1937年11月2日〜、第1次トラウトマン和平交渉(工作)。
広田外相が正式に駐日ドイツ大使に仲介を依頼し、
日本側の和平条件を提示したが、蒋介石は応じなかった。

●1937年11月、蒋介石(国民党)、南京陥落前に南京から逃走。
最初は漢口、そして重慶に逃げ込んで重慶を首都にして重慶政府を樹立。

●1937年12月10日、南京を包囲された中国軍が日本の降伏勧告を無視。

●1937年12月13日、南京陥落。

●1937年(昭和12年)12月21日〜、第2次トラウトマン和平交渉(工作)。
すでに南京攻略後で日本側に何万という死傷者が出ていたから、
以前のような寛大な案では済まなくなっていたし、
あいまいな回答で引き延ばし続けられた。

●1938年1月2日、ドイツ大使トラウトマンが日本の第2次和平案の返事を
聞くために蒋介石を訪問しようとしたが、蒋介石は会わず。

●1938年6月12日、蒋介石軍が黄河の堤防を決壊させる。
日本軍による救出活動も虚しく住民60万人が罹災し12万人が行方不明。
中国軍はこの黄河と揚子江の堤防決壊を日本軍の仕業と世界中に宣伝

●1938年(昭和13年)10月26日、武漢三鎮陥落。

武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が日本軍によって陥落。
(中国軍は武漢撤退の際、すべての建物に爆弾をしかけた。)
盧溝橋事件から始まった支那事変は、これで本格的な戦闘は終了した。

以後、米国が支援する蒋介石の重慶政府、
日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争が主流となった。

汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、
名古屋で治療を受けたが11月10日、帰らぬ人となった。

翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。
戦後、米国は蒋介石への支援をやめたため毛沢東が勝ち、
蒋介石は台湾へ逃げた。









「支那」呼称について


中国?支那?

中国の「国父」といわれる英雄「孫文」も
日本に入国した時、国籍は「支那」と書いていました。

中国人が「中華人民共和国」や「中国」と呼べと言う相手は、
日本以外にあるのでしょうか?

日本以外の国は、「チャイナ」や「シーヌ」や「シーナ」で良くて、
日本だけに「シナ」ではなく「中国」と呼べと言ってるのでは?

中国が日本に「中国と呼べ」と言って来たのは、終戦の翌年1946年でした。
戦後、国民党政府(蒋介石)が占領統治で主権のなかった日本に対して
要求したのです。

「日本では敗戦直後の1946年に中華民国からの要望により、
支那を中国と呼ぶように外務省から通達が出され、
公務員が公務を行っている時のみは「支那」を使うことや
公共電波での支那呼称は禁止されています(当時の外務省局長級通達による)。

ただし、上記通達で禁止されているのは
「国名としての『支那』」呼称のみであり、
歴史的・地理的および学術的呼称の場合は必ずしも従う必要はありません。
上記通達でも「東シナ海」「支那事変(日支事変)」などの名はやむを得ない
とされています(現実には支那事変は日中戦争に取って代わられました)。」

また、「支那」という言葉(表記)は、大昔からありました。

「支那」という表記を発明したのは古代シナ人だったのです。

――――

"支那"原是"Cina" 的音譯,是古代印度対古代中国的称呼,
最早出現在梵文佛経中。
梵文Cina進入不同的語言中,其読音変化不大,
譯音是"China"、"支那"、"脂那"、"至那"或"震旦"。
1999年5月7日付けの「人民日報、支那源流考」

――――

中国でも仏典や、「宋史」などに支那という語が使われているそうです。
北京かわら版 1999年3月 第90号 雑学
中国を繙く24「支那」は本当に悪くない言葉か
(1)櫻井澄夫(元JCB北京事務所所長)

――――

梵語(サンスクリット語)
チーナ,ティン

漢訳仏典
支那,脂那,チナ

フランス語
ラ・シーヌ

英語
チャイナ

ドイツ語
ヒーナ

イタリア語
ラ・チーナ

オランダ語
シーナ

ポルトガル語
シーナ

スペイン語
チナ

日本語
支那,シナ

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

【参考】

まず、「シナ」の語源ですが、
支那史上最初の統一帝国「秦」(チン Ch'in 前221-207)から来ています。
この「チン」(秦)がインド(サンス クリット語)に伝わり、
「チーナ」(Cina)・「ティン」(Thin)となり、更にヨーロッパへ伝わり、
「シーヌ」(Chine 仏語)・「チャイナ」(China 英語)
と変化していった訳です。

そして、戦前の日本で広く使用された「支那」もこれと同様で、
梵語(サンスクリット語)の「チーナ」がインドの仏典と一緒に
支那に逆輸入されたもので支那人自身が「支那」・「脂那」と
表記したのが起源です。

つまり、支那側が侮蔑用語としている「支那」の表記は、
支那自身が編み出したもので、
日本人は中世以来終戦までそれを借用していたに過ぎないのです。

また、日本人が使用していた「支那」が侮蔑用語だというならば、
「シーヌ」も「チャイナ」も侮蔑用語となる訳で
(語源は全て同じなのだから)、
支那が自国の英語表記を
「People's Republic of China」(支那人民共和国)と
すること自体矛盾している訳です。

「中国」の呼称に潜む真の意味について書いてみようと思います。
支那の現国名「中華人民共和国」の「中華」ですが、
この中の「華」とは古代支那の王朝「夏」が起源で、
「中夏」とも書かれました。

そして、「中国」・「中華」の「中」とは、
「世界 の中心」を意味しており、
「中華」とは、「世界の中心である夏(華)」と言った意味なのです。

そして、この「中国」・「中華」とは裏を返せば、
支那周辺の国々は「野蛮で非文化的な未開な地」
と言う意味も込められています。

これが「中華思想」と呼ばれるもので、支那の周辺国は方角によって、
東夷・西戎・南蛮・北狄と呼ばれました。

勿論、私たちが住む日本も例外ではありません。
「邪馬台国」や「女王卑弥呼」で有名な「魏志倭人伝」も、
正式には「魏志東夷伝倭人条」と言います。

つまり元来、日本人が支那の事を「中国」と呼ぶ のは
大義名分からしても不自然な訳で
(あの「広辞苑」にもそう書かれています)、
支那側が自国の呼称としている「中国」(及び「中華」)は、
逆の意味で「支那」以上に侮蔑用語なのです。

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日本では14世紀に既に、中国地方は「中国」と呼ばれていた。

『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋、修正
――――――
18:04 2010/02/23大河島城
足利尊氏と対立した弟・直義の息子・直冬が
1349年に中国探題として在城した。
HP「日本の城」より
――――――
延喜式による「近国」「中国」「遠国」の三区分のうち、
「中国」に属していたのが名の由来。
文献上の早い例は、1349年に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、
長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」としてみえる
(「師守記」「太平記」)
翌1350年に高師泰が足利直冬討伐に
「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、
1354年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた
(「永青文庫文書」)。
南北朝時代中頃には中央の支配者層に、
現在の中国地域がほぼ「中国」として認識されていた。
また中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった。
(岸田裕之執筆「中国」の項、『日本史大事典4』平凡社、1993)
――――――
このように、日本では650年以上前から日本の中国地方を
「中国」と呼んでいた。

一方、支那のことに「中国」という差別語が用いられるようになったのは
20世紀になってからだ。

満州王朝の清国から辛亥革命によって独立した漢民族は、
独立した国名を「中華民国」と名付けたのだから、まだ100年も経ってない。

辛亥革命後も、世界は、「支那」、「シナ」、「シーナ」、「チナ」、
「チーナ」、「シーヌ」、「チャイナ」などと呼び続け、
「中華民国」とか「中国」などの差別語で呼ぶ国はなかった。

ところが、大東亜戦争が終わり、戦勝国となった支那は、
敗戦国となった日本に対してのみ「中国」という差別語を強要してきた。

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「支那」は世界の共通語
【私の正名論】評論家・呉智英
2008.5.14,産経新聞

必ずや名を正さんか。孔子の言(げん)だ。
名は言葉。言葉が正しくないと社会も文化も混乱してしまう。
迂遠(うえん)なようでもまず名(ことば)を正す(正名)のが
すべての基本である。

その孔子の故国に批判が噴出している。
農薬まみれの野菜、毒入りギョーザ、少数民族抑圧、過剰な愛国主義…。
批判も当然。私はこれに同調する。しかしまず名を正すべきだと思う。

昨夏、中国食品という会社が倒産した。
健全な経営の食品会社であったが、
農薬汚染食品の輸入会社だと誤解されて製品が売れなくなったのだ。

この会社は広島にある。社名が中国食品で何の不思議もない。
中国放送、中国新聞、中国電力、中国ガス、中国銀行…

これらは全部日本の中国にあって、支那にあるわけではない。
知名度の高いこれら公共企業であれば特に誤解も起きないが、
それ以外の、岡山や広島や山口など中国にある中国何々といった会社や
団体がみんな迷惑している。

中国は「中国」、支那は「支那」とすれば、
こんな混乱は起きるはずはない。中国食品も倒産などせずにすんだのだ。

この混乱の責任はどこにあるのか。

第一に「中国」を日本に対してだけ強要する支那。

第二に、この異常な主張に諾々として従い、
言論機関にこれを強制した昭和二十一年当時の外務省。

第三に、この言論抑圧に屈するのみならず、
これをなにか「民主的な」改革だと
正反対に勘違いしている自称良識人たち。
この三つが連動して混乱をもたらしているのである。

―――

第一の点。
「支那」禁止は理不尽な言いがかりである。
「支那」という言葉は最初の統一王朝の「秦」に由来し、
世界中でその近似音で支那を呼んでいる。

支那人自身が支那を「支那」と呼んだ記録もあり、
清朝の公的文書にも「支那」は出てくる。

しかし、かつての朝貢国である日本には自分たちを
世界の真ん中にある国「中国」と呼ばせたいのである。

第二の点。
「支那」が抹殺されたのは、
戦後の混乱期である昭和二十一年六月の外務省次官・局長通達による。
支那は形式上アメリカを中心とする連合国の一員であり、
日本に対して戦勝国である。

その力関係を背景に「中国」を強要してきた。
外務省は従順にそれを受け入れ、
各言論・報道機関に「支那」を禁止し
「中国」を使うように通達を発した。

その中にこんな文言がある。
「今度は理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使はぬ様に」。
占領下では、正当な理屈さえ禁じられていたのである。

第三の点。
明白な言論弾圧を、自称良識人たちは、
侵略戦争への反省や民族差別解消の名目で歓迎した。

二十世紀末まで支那を植民地支配していたイギリスでもポルトガルでも
「チャイナ」「シーナ」と呼んでいることを知らないふりで。

また「中国」が差別的な自国中心主義を意味することも知らないふりで。
そもそも外務省通達の存在を、これは本当に知らないのである。


しかし日本では、ほぼ「中国」が定着していますので、
「中国」のほうがトラブルが少なくていいとは思いますが、
日本の中国地方のことを考えると、まぎらわしいので困った問題ですね。

満州族の清朝と、漢族の支那を区別して話をしたほうがいい時もありますね。








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2012年01月15日

百年の後の世かとぞ思いしに 今このふみを眼のあたりに見る

ラダ・ビノード・パール

राधाबिनोद पाल

法学教授・国際連合国際法委員会委員長


極東軍事裁判


パール判事は、

この裁判が最初から日本を侵略国と決め付けていることに不快感を示した。

そしてこの裁判の本質は連合国側の政治目的を達成するために

設置されたに過ぎず、

日本の敗戦を被告達の侵略行為によるものと裁く事によって、

日本大衆を心理的に支配しようとしていると批判した。

さらに、検察側の掲げる日本の侵略行為の傍証を

、歴史の偽造だとまで断言した。

かつて欧米諸国がアジア諸国に対して行った行為こそ、

まさに侵略そのものであると訴え、

唯一人全被告を無罪だと主張した。



 

パール判事の判決を聞いて 


殉難者が遺した歌



東條英機


百年の後の世かとぞ思いしに 今このふみを眼のあたりに見る




板垣征四郎


ふたとせにあまるさばきの庭のうち このひとふみを見るぞとうとき

すぐれたる人のふみ見て思うかな やみ夜を照らすともしびのごと



 

木村兵太郎


闇の夜を照らすひかりのふみ仰ぎ こころ安けく逝くぞうれ志き





 

その後のパール博士

1950年10月、パール博士は二度目の来日をされた。

約1ヶ月間の滞在中に次の言葉を残されている。


 

「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。

われわれはこの《法の真理》を奪い返さ ねばならぬ。」

 

 「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、

中国はこれを提訴している。

しかし東京裁判 において法の真理を蹂躙してしまったために

《中立裁判》は開けず、

国際法違反であるこの細菌戦ひとつ 裁くことさえできないではないか。

捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。

幾十万人の人権と生 命にかかわる重大問題が、

国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか。」


 

 「戦争が犯罪であるというなら、

いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、

トルーマン、スターリン、李承晩、金 日成、毛沢東にいたるまで、

戦争犯罪人として裁くべきである。

戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とド イツの指導者のみを裁いたのか。

勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、

もはやそ こには正義も法律も真理もない。

力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、

信頼も平和もあろ う筈がない。

われわれは何よりもまず、

この失われた《法の真理》奪い返さねばならぬ。」

 

「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。

しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるで あろう。

だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、

世界は国際的無法社会に突入する。

その責任は ニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した

復讐裁判の結果であることを

われわれは忘れてはならない。」

 
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。

しいて独立という言葉を使いたければ、

半独立といったらいい。

いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、

東京裁判史観という歪められた自虐史観や、

アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。

日本人よ、

日本に帰れ!と私は言いたい。」



 

いまや英・米・仏・独など世界の法学者の間で、東京とニュルンベルクの軍事裁判が、

果して正当か否かという激しい論争や反省が展開されている。

げんに英国法曹界の長老ロード・ハンキーは

<パール判事の無罪論こそ正論である>

として『戦犯裁判の錯誤』と題する著書まで出版している。

しかるに直接の被害国であり、げんに同胞が戦犯として

牢獄に苦悶している日本において

この重大な国際問題のソッポに向いているのはどうしたことか。

なぜ進んでこの論争に加わらないのか。

なぜ堂々と国際正義を樹立しようとしないのか・・・









昭和25年11月

パール博士は広島の爆心地に近い本川小学校講堂で開かれた

世界連邦アジア会議に、ゲストとして参加した際の

 

パール判事の言葉



人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である。
広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。

日本は投下される何の理由があったか。

当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。

それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。

 同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。

そこに人種的偏見はなかったか。

しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。

彼らの手はまだ清められていない。

こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。





講演後の11月5日、パール博士は

広島の原爆慰霊碑 に献花して黙祷を捧げた。


その碑文「安らかに眠って下さい。

過ちは繰り返しませぬから」の意味を理解した博士の表情は厳しくなった。

この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。

もちろん、日本人が日本に謝っていることは明らかだ。

それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。

ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、

その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。

落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。

この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。

その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。

さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり

日本を経済封鎖し

石油禁輸まで行って挑発した上

ハルノートを突きつけてきた

アメリカこそ開戦責任者である。














今日ボクが見た風景




 


靖國神社

東京都千代田区


パール博士顕彰碑

碑文


時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には 

また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には

その時こそ

正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 

過去の賞罰の多くに

そのところを変えることを要求するであろう

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「戦死者多く」と自責 乃木希典の直筆手紙が見つかる、乃木家断絶も覚悟

「戦死者多く」と自責 乃木希典の直筆手紙、乃木家断絶も覚悟

2012.1.14 13:48



今日ボクが見た風景
      乃木希典

 


日露戦争の陸軍司令官、乃木希典(嘉永2〜大正元年)の直筆の手紙が札幌市内で見つかった。戦争で跡継ぎをなくし、知人から養子を勧められていた乃木だが、多くの兵士を死なせた自責の念から、養子縁組せずに乃木家を断絶させる覚悟をつづっている。

 手紙は明治43年7月6日の消印で、学習院院長をしていた乃木が広島市の修道中学校校主の佐藤正宛てに送ったもの。

 乃木は日露戦争(明治37〜38年)で中国の旅順攻略を指揮し、約6万人の戦死傷者を出し、息子2人も失った。手紙には、天皇陛下や遺族に申し訳なく、跡継ぎのための養子は考えておらず「小生共一代」で終わると記述。息子の戦死で「面目を保った」との思いも明かしている。

 約20年前に札幌市の男性が市内の骨董店で手に入れた。3年前に伊藤書房(同市厚別区)が購入し、18日に札幌古書籍商組合の競りにかける。



http://sankei.jp.msn.com/life/news/120114/trd12011413500004-n1.htm







日露戦争多数の死者に自責の念 乃木大将「養子とらず家断絶」書簡


NHKで2011年12月に放送されたドラマ「坂の上の雲」に登場する重要人物のひとり、乃木希典将軍。

彼の直筆の書簡が北海道で見つかった。

過去にも乃木書簡はたびたび発見されているが、

今回の内容は日露戦争で多くの兵士を死なせた自責の念がつづられているという。

自身も戦闘で長男勝典、次男保典を亡くす

書簡を入手したのは、北海道札幌市にある伊藤書房だ。宛先は、交流のあった元広島市長の佐藤正で、1910年7月6日の消印となっている。乃木はこの時期、学習院院長を務めていた。妻の静子とともに自刃する2年前だ。

どのような内容が書かれているのか。伊藤書房に取材すると、

「日露戦争で『天皇陛下の赤子(せきし)』を多く死なせてしまったことへの後悔が、

文章からうかがえます」と説明する。

日露戦争で乃木は陸軍司令官を務め、難攻不落と言われたロシアの旅順要塞を激戦の末に陥落させるなど軍功を立てた。しかし代償も大きかった。約6万人の日本兵が戦死し、乃木自身も長男の勝典、次男の保典を亡くした。明治時代は、ひとりの兵でも失うのは上官として大変不名誉なことと位置付けられていたといい、多くの尊い命が戦争で失われたことへの責任を深く胸に刻みつけていたと思われる。

手紙では、乃木家の後継者として養子を迎えるように勧めていた佐藤に対して、その意思がないことを伝え、自身の代で乃木家が断絶することもやむなしとの覚悟を示しているという。

実は乃木は、1877年に西郷隆盛らが起こした西南戦争で政府軍として鎮圧にあたったにもかかわらず、逆に敵兵から軍旗を奪われるという失態をおかしていた。「明治天皇から賜った旗」を失ったことをこの上もなく恥じ、以後大きな心の傷となった。これも、乃木が後継ぎとなる養子を迎えないひとつの理由だったようだ。

伊藤書房によると、書簡は長年付き合いのある顧客から3年前に購入したという。乃木の直筆という「証明」として、この手紙を読んだ陸軍大将の荒木貞夫や、日露戦争の従軍体験をもとに書いた戦記「肉弾」で知られる作家の桜井忠温の署名が入っている。毛筆で書かれた手紙の長さは150センチに及び、淡々としたトーンで書かれている印象だが、「読んでいくと、日露戦争で多くの犠牲者を出した自責の念や、そこから来る乃木の人生観が伝わってくる」そうだ。書簡は1月25日、札幌古書籍商組合のオークションにかけられる。

義弟からの就職あっせん依頼を断る手紙も

乃木自身がしたためた手紙は、これまでにも何度か見つかっている。2011年9月26日の産経新聞は、乃木が香川県に赴任していた1900年8月、就職の世話を頼まれたことに対する返信が発見されたと報じた。乃木の妹の夫からの依頼とみられるが、手紙には乃木が軍関係の仕事のあっせんを考えたものの、読み書きやそろばんなどの必須内容が依頼者には不向きなため見合わせたとの内容だった。

2006年には、岐阜県瑞浪市で乃木直筆の書簡が保管されていたことが分かった。岐阜新聞によると、町村合併する前の恵那郡陶村が乃木に戦勝記念碑と忠魂碑への揮毫を要請、乃木は「大小2つの碑をつくるのは意志に反する」としたうえで記念碑への揮毫のみ応じていた。碑は1911年に建立され、実際に乃木の揮毫が使われたという。

逆に乃木にあてて書かれた手紙が、米国在住の日本人の自宅から出てきたこともある。2000年、米カリフォルニア州サンノゼ郊外在住の在米日本人が、山縣有朋や桂太郎、東郷平八郎ら陸、海軍関係者からのものを中心に88通の書簡を保管していたことが報じられた。日露戦争で大激戦となった「203高地」攻防戦の末、旅順を落とした乃木に、東郷が手紙で称えているものもある。


http://news.livedoor.com/article/detail/6190898/







この潔さ!
正しく日本精神の美しい結実である。
司馬遼太郎によって日本で不当な評価を
受けているが、当時の日本国民が熱狂し、
諸外国に於いても乃木の名が高く評価されていた
事実は、乃木大将の戦術家としての実力も証明されるものである。






司馬遼太郎のおかげで愚直凡将扱いされてしまった人。最新兵器の前では
人海戦術では勝てない近代戦の現実に直面した最初の日本軍司令官
運良く大砲を持ってくるアイデアを持ってきてくれたが、それがなければ敗戦していた
大本営も最新兵器にどう対処していいかわからず乃木に任せてしまえというけっこう
無責任だった。その兵站と兵器軽視が次の敗戦へつながった
乃木大将も自責の念よりなぜ大勢の兵を死なせる戦争をしたのか突き詰めて
校長先生などに押し込められず軍備の改良、10年ごとの軍装の改新を
担当してほしかった。残念だと思う




乃木希典(参謀長は伊地知)が5ヶ月攻撃して落とせなかった(死傷者6万人!)要塞を
児玉源太郎が指揮権を奪い1週間で203高地を落としてその後数週間で陥落している

ちなみに203高地が落ちなかったら今の日本は地上に存在しない、もちろん
今の日本人はおそらくロシア人の混血児




大陸から日本軍は一掃されていただろうけど、ロシアも日本列島に上陸してくるほどの余力は無い。

ヘタレロシア海軍じゃ日本海軍に勝つのは無理。

日本海海戦ほどの惨敗は無かったとしても日本海の制海権などとても取れない。




まぁ旅順港内のロシア軍艦は一隻を除いて元々使用不能な状況になってて
そもそも203高地を攻め落とす必要なんて既に無かった・・・と言うのは悲しいが真実ではある





学校の歴史教育で日露戦争を殆ど教えないよな。
教えるとしても、与謝野晶子の寝ぼけた詩ぐらい。

与謝野晶子を教えるぐらいだったら、乃木大将の水師営の会見を教えるべきだろ。
日露戦争中に与謝野晶子なんか全く影響与えてないのに対して、乃木は絶大な影響を与えた
与謝野晶子を教えて、乃木希典を教えない理由が全く理解できん






26 :名無しさん@12周年:2012/01/14(土) 23:00:55.85 ID:calEe2fZ0

日本人を意味なく殺した数じゃ、
確実にベスト10に入るな。

当時は子供にまで無能呼ばわりされ、
乃木の切手も嫌われてた。


司馬史観に洗脳された被害者

WWIの各戦局に比べれば、あれだけの規模の旅順要塞を攻略するのに
この程度の死者で済んだかというのが戦史家の見解だよ

乃木愚将説=陸軍悪玉思想=海軍善玉思想






乃木坂の乃木神社で売ってるお守りが可愛い。

posted by xxx at 01:16 | TrackBack(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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